見出し画像

「かっこいいということ」と「モテるということ」

 本稿の掲げる命題は実に単純であり、それが故に、少々読者諸賢を困惑させるかも知れない。筆者は勿体ぶるのがあまり得意ではないため、すぐ下にこれを述べるが、つまり本稿で述べたいのは、
「かっこいいということと、モテるということは全く別のものである」
 ということである。
 上述の通り、この命題にある種の違和感を持つ読者もあろう。一般的には、モテるということとかっこいいということは、確かに等号で結ばれがちであるが故に。けれども、良く考えてみれば、或いは事象を良く観察してみれば、かっこいいという概念とモテるという概念の間には多少重なる部分はあろうものの、しかし、それらは決して等号やニアイコールで結ばれないどころか、その集合が重なるのはある意味では偶然の賜物にも等しいことが理解される筈である。以下で述べるのは、本命題の理由付けに過ぎない。だが、昔日の筆者の様にかっこいいものに惹かれ、そしてモテることにも憧れを持ち、両者は等号で結ばれているが、モテる男になりたいとは何故か積極的には思えず、このため決してモテる様にはならず、このままではかっこいい男には私はなれないと考えている(かも知れない)男性読者諸氏にかけられた、ある種の呪いを解くことに繋がるかも知れない。或いは、自分が抱える男の理想像と実際に異性に魅力的なモテる男像が著しく乖離している理由の一端を垣間見るに能うかも知れない。まあ、結局本稿に何を見出すかは読者次第である、ということであるのだが。しかし、時としてかっこいいということとモテるということをイコールで結ぶことは、我々の不利益になりかねないものであろうことは、ここに述べておく。というのも、それは、かっこいい男になるための条件として、モテることが必須となるということを意味するが故である。後述するが、これでは決してかっこいい男にはなれず、かつ、モテるようにもならない。徒に自分はモテないと、自己卑下を繰り返し、自分を傷付けるだけだ。傷物の自分を労るのが趣味の御仁であれば、筆者はこれを止めないが、健全な精神生活を営みたいのであれば、早急に両者の混同は止めるべきであろう。これは筆者からの第一の助言である。

 さて、本稿の主張を明確にするにあたり先んじて行うのは、かっこいいということとモテるということ、両者の概念分析である。しかし、これが多分に問題だ。前者は、はっきり言えば定義不可能である。それは実に感覚的なものであり、人によって定義が異なるどころか、それを言語として表現することも、実に難渋である。その点、後者は実に明確に定義が可能で扱いやすい。故に本稿においては、まず定義のしやすいモテるについての概念分析から、始めることとする。
 モテるとは、何か。モテるとは、性的な魅力があり、自分にとっての性的な対象を十分に惹き付ける能力がある、ということである。また、性的な対象を十分に惹き付けている状態をも表す。つまり、モテるということは、何らかの性的な魅力があることと、それから生じた状態を表すのである。例えば、異性にモテる男性を想像すれば良い。スポーツをしていて、コミュニケーション能力が異様に高く、筋肉も、財力もある、そういった男。スポーツ、コミュニケーション、筋肉、財力、……これらの要素が性的な魅力であり、異性を惹き付ける能力と解釈でき、これらの結果として彼らは多くの異性から求められる。即ち、モテるとは、この様なことである。……筆者にはこれらの様なものが無いため、あくまでも外表的な観察に留まるが。
 では、次にかっこいいとは何か。はっきり言えば、かっこいいとは、かっこいいことだ。それ以上に定義することはできない。しかし、これではモテるということとの違いが分からないだろう。このため、不出来と無理を承知で強いて申せば、かっこいいとは、一種の理想である。それになりたいと思える、一種の理想を有した状態。それがかっこいい、ということなのであろうと思われる。例えば、かっこいいの代表例として、我々は昔、仮面ライダーを憧憬していた。仮面ライダーは人知れず悪の秘密結社と戦い、人々を守るのである。これを我々はかっこいいと思っていた。例えば、ある時、我々は凄まじい程の知識を有する知の無限迷宮に住まう様な魔人の如き人物をかっこいいと思っていた。どんなものでも知っていて、どんな問題もその知で解決しうるのである。また、その語られる言葉は膨大な知識による絢爛な大伽藍ともなろう。かっこよくない筈がない。例えば、ほんの最近、我々はタフガイなハードボイルド探偵をかっこいいと思っていた。彼らはどんな困難があろうとも、事件の真相に向かう歩みを止めない。実にかっこいいものである。……以上の様に、滔々と筆者のかっこいいに関する趣味を述べるだけでも、かっこいいという概念の不確かさが確認されることであろう。だが、敢えて、これらのかっこいいを総括するのであれば、それは、筆者がなりたいと思える理想の集合体であるのだ。即ち、かっこいいとは、正に、それになりたいと思える理想、であるのである。けれども、かっこいいというのには、何かカントの定言命法的な側面が存する様に、筆者には思われる。故に、かっこいいということを、かっこいいということ以外で定義するに能わないのであろう。これを加味すると、かっこいいとは「無条件になりたいと思える理想」と、定義し直せるかも知れない。

 以上、モテるということと、かっこいいということ、二つの概念を分析・定義した。この分析を基に両者の関係を以下に考察する。まず、モテるということ――性的な魅力があり、性的な対象がひっきりなしに惹き付けられる状態――は、確かに定義上において、かっこいいということと重なる部分が存する。というのも、かっこいいということは「無条件になりたいと思える理想」であるから。無条件にモテることがかっこいいということと同等視する人間もあろう。けれども、我々は、というよりも、筆者だけなのかも知れないが、モテる様になるために努力する人間を、決してかっこいいとは思わない。彼を筆者は頑張っていると思う。彼にはどうぞその理想に達するべく努力されるべきであると思う。しかし、彼を決してかっこいいとは思えない。何故かは分からないが、それは決してかっこいいものではないのだ。例えば、ジャニーズ系や犬系男子、韓国系男子がモテるからと言って、それになろうと努力する男が居るとしよう。その努力は称賛されるべきであるが、筆者は決してこれをかっこいいとは思えない。モテるために、筋トレを必死で、ある意味女々しく過敏なまでに行おうとする男も居る。その鍛錬、実に涙ぐましく感動的で健康的であると思うが、筆者は決してこれをかっこいいとは思えない。……何故だろうか。大抵の場合、我々がモテるようになりたい、即ちモテたいと思っている時、それは性的な欲求が存する時である。つまり、我々は己の性的欲求を満足させたいからモテたいと思う訳で、モテるということについて、無条件にそれになりたいと思っている訳では無いのである。したがって、モテるということは、定義上、大抵はかっこいいことではないのだ。これが、筆者がモテる男を決してかっこいいとは思えない上に、なりたいとも、性的な欲求の満足以外では思えない理由なのであろう。例え、バスケ部の主将で女を取っ替え引っ替え、爆乳の同級生や尻の大きい下級生とヤりまくりなアルファメール(笑)が目の前に居て、筆者の眼前で彼と彼女が性交していようとも、筆者はそれをかっこいいとは思わない。それは単に、筆者の無条件で追い求める理想と、それとが、著しく乖離しているからなのであろう。

 また、こうも考えることが出来る。かっこいいとは、何かなりたいと思える理想、つまりは自己実現的な文脈の概念である。一方で、モテるとは、性欲という本源的な欲求から生じた概念である。心理学者であるマズローは欲求を五つの階層に分けて分析している。第一段階、生理的欲求。第二段階、安全の欲求。第三段階、社会的欲求。第四段階、承認欲求。第五段階、自己実現の欲求。以上が、マズローの掲げた欲求の五つの階層であるが、この内、性的な充足を求めるモテるは、生理的欲求に、なりたい理想を追い求めるかっこいいは、自己実現の欲求に、それぞれ分類されることであろう。つまり、モテるとかっこいいとでは、欲求の階層からして全くの別物であるということが言える。因みに、マズローは欲求に関して、それよりも下の階層の欲求が満たされていなければ、上の階層の欲求は満たされないとしていたが、筆者はこれについては異なる意見である。仏教者は性欲という第一段階の欲求を満たしていないが、第五段階である解脱という欲求を満たせるではないか。この実例一つをもってしても、マズローの主張の誤りは示唆できるように思われる。或いは、これがモテたいと思ってもモテない理由であるとも考えられる。女性が最も嫌う男は、性欲という生理的欲求100%剥き出しで自分と関わる男である。モテる男は上手にこれを昇華するが、モテたい男はこれを隠せない。そりゃあ、モテたいという純然たる性的欲求の動機を持ってしか自分に近づかない男を、女は好ましく思わないだろう。相当、その男に性的魅力があれば、別の話だが。しかし、それはモテる男なのだ。そして、我々は、通常、その様なモテたいという動機を有する性欲剥き出しの人間をかっこいいとは思わない。性欲に眼をギラつかせた中年男性を、我々はかっこいいとは思わないだろう。これをかっこいいとする価値観があれば、必ずや少子化は解消されると思うのだが、現実は非情である。……まあ、つまり、モテるがためにかっこよくなろうとするのは、端からお門違いなのだ。モテることとかっこいいということは全く違い、また、モテようと思ってかっこよくなろうとしても、それは必ず失敗に終わる。

 以上、かっこいいということとモテるということは全く別である、ということについて少々物を述べてきた。上を以て、筆者としては、この命題は正しいと考える。この様なことを考えるからに、筆者は恐らくモテない人間なのであろうと、邪推される読者諸賢も居られるであるが、それは明察である。筆者はモテない男である。今流行りの、弱者男性以外の何ものでもない。これまでモテたことも無ければ、人生に二回訪れるというモテ期が一回も来たことはない。そもそも、筆者がかっこいいと思っているのは、ハードボイルドや正義の味方、無尽蔵の知を誇る賢者なのであって、モテる男ではないのだ。筆者は先述の通り、モテることとかっこいいことは、等号で結ばれると長らく勘違いしていた。そしてこのために、ハードボイルドその他の筆者の理想は、かっこいいものではないとして否定され、それを理想として考える筆者は男として不具なのではないかと考えていた。しかし、モテることは、謂わばかっこいいことのほんの一部を構成しているどころか、極めて微小な部分を占有しているのみであって、かっこいいことの幅は実に広く、概念として寛大である。それを抱いたとしても女にモテない男の理想がどれほどあるか、我々は既に夥しい事例を思い浮かべることが出来るだろう。腐った支配者の世界を一変させられる髭達磨のテロリストを、女は決してかっこいいものだとは思わないし、筆者もこの人間を女からモテるとは決して思わない。だが、それは、無条件にクールで、かっこいい。つまり、かっこいいとは、そういうことなのだ。
 思うに、モテるということとかっこいいということ、この両者を等号で結びこれを吹聴した人間は、唾棄すべき人物である。性的な魅力が無くともかっこいい人物は多く在る。けれども、この等号は、それらの人物をその二本線の下に黙殺してしまう。それに、これが自己実現の欲求充足を妨げる一因となっていることも指摘出来よう。モテるということは、ある意味、一部の人間に限られた事象である。顔貌等の生得的な要素に依る所も多い。では、その様なものが無い人間は、果たして、自己実現できないのか、つまり「かっこよく」はなれないのか。その答えは、本稿で示した通り、否である。モテることは自己実現にとって必須ではない。顧みれば、実に当たり前のことではないか。

 さて、本稿をここまでお読みいただいた所で、読者、貴方にとっての、無条件に追い求めたい理想とは、何だろうか?
女を何十人と侍らせヤりまくる男か?
或いは、孤独に紫煙を嗜むハードボイルドなタフガイか?

 まあ、何れにしても、モテなくとも良い。ただかっこよく在りたまえ。結局の所、それが我々の理想を叶えることとなるだろう。

 これが本稿の提示する、最後の命題である。

いいなと思ったら応援しよう!

巣尾黒曜
宜しければ御支援をよろしくお願い致します。全て資料となる書籍代に使わせていただきます。