香水:スニャータ(空) composed by Tokyo-Sanjin 東京山人
肌触りがよく手放せない服の幾つか。
履きなれたスニーカー。
革細工の小さなポシェット。
鮮やかな花が描かれたスカーフ。それは小学6年生の頃、雑誌に投稿した短編の原稿が掲載された時の景品。テーマは「夏の思い出」だったような。いつもお茶を淹れいる道具。この手で持ち運べるトランクのサイズはそれほど大くない。自分で運べないほどの荷物を抱えることを、もう止めた。トランクに最後に残ったスペースにキャミソールとシルクのカフタン、サンダルをスペースに詰め、トランクを閉じた。
迎車のタクシーは目黒通りに出て、ひた走る。ブルーに包まれた夕方の雨の中、水飛沫を上げながら羽田へと向かう。窓を叩く水滴にブレーキランプが赤く滲む。滲んで溶けていく。全てが形を崩していく。水に触れた角砂糖みたいに。
東京に暮らす誰もが、この場所の名前を聞いて、皆一様に首をかしげる。説明を重ねたとて、誰もこの土地の地理をイメージできない。簡単に手に入る情報をいくら束ねてみても、ここは誰からも知られることのない土地。躊躇わず空気を胸いっぱいに吸い込む。
湿度と磯の香。
調子がよければ辛うじて電波を拾うWifiは、ハイスピードにはほど遠い。固まっては動き、そしてまた固まる動画のストリーミングを諦めると、外ではいつの間にか雨が上がり、雲の隙間の夕日が地面を照らしている。今よ、とばかりに蝉が鳴いている。
都会の暮らしの中で築かれ、タールのように本来の感覚を覆ってきた癖を嘲笑う。
これよりも、あれがいい。
他人が持っていて薦めるものは、自分も持っていた方がよいのではという脅迫観念。
癌の遺伝子診断はもはや検診のスタンダード。
新しくできた、コンセプトカフェでオープニングパーティー。
異議を封じる子育て母の意見。
毎週アップデートされる便利な新商品。
一斉に叩かれる誰かの思わず出た一言。
怒り、悲しみ、不安、コンプレックス。
噴き出し拡散する情報を浴びて過ごす。その理由はない。理由なくともそうしなくてはならないのだと、通信端末は自分に迫ってくる。
イメージは実感によってではなく、情報によってのみ、作られては壊され、塗り替えられ形を変えて、良いとも悪いとも、好きか嫌いかも分からない色をしてただ蠢くばかりの影。その影に怯え、その影を実態だと信じ込む。
そんな毎日に違和感というよりも先にうっすらとした疲れを感じながら、その状態を正しく捉えて理解することができなかった。
多様な情報が実行より先にインプットされる。翌日の仕事の内容を、当日実行するよりも先に頭の中が仕事中をシュミレートしてしまう。何度も何度も、イメージの中で、まるでこの手を実際に動かし、人と話、議論しているように。独り、休む時間のはずがタフな仕事の幻影を何重に重ねて、疲れていく。ゼロになれなかった東京。
そんな日々が、充実した生活なのだと思っていた。
勤めている建築事務所の空調工事が急遽休日に実施されることになった。
誰かがその日に出勤し、工事業者への対応と作業完了を見届けなければならない。プロパーのスタッフは私以外、客先打ち合わせの出張が重なり、その日出社できる人がいない。派遣会社からのスタッフには休日出勤は依頼できない。結局、私が日曜日の事務所の鍵を開けることになった。
いつも、日除けで降ろしているウッドブラインドを全て上げる。オフィスの照明を落として、外光を入れる。
これから陽が高く昇れば、暑い一日になるだろう。梅雨の合間で湿度だけが高く、雨の降らないこんな休日に、表参道を歩いているのはどんな人たちなのだろう。
平日、この街で働く人たちとは違う。
私も学生だった頃、休日には表参道の路地をよく歩いていた。細い坂道。隠れ家のような店が好きだった。それらは、今はもうどこにもない。あの頃と似た風景のままのようでいて、全てがあの頃とは違う。ガラスと石の、書き割の続くのっぺりとした、薄い世界。こんな街になったことが、皮肉にも世界を魅きつけている。それとも、そうではなく私の方の心がこの街から離れたのか。
ラグジュアリーブランドショップが並ぶ。フィレンツェ、ニューヨーク、ローマ、ロンドン、ワイキキ、どこにでもある光景。
各国からの若い観光客で覆いつくされる。住宅街に建蔽率ギリギリに建てられた白亜の城を真似た建物は、大人になってもテーマパークを捨てられない人に人気だ。毎日の何もかもが、実感のない何かに置き換わっていた。
アスファルトが反射する光はガラス張りのオフィスに直接降り注ぐ。
窓の外に脚立を載せた白いワゴンが止まる。時刻丁度、10時。空調工事業者だ。エントランスを開けに行く。
「おはようございます」
白いTシャツとグレーの作業ズボン。日焼けした腕が名刺を差し出した。微かなニコチンの匂い。
「ご苦労さまです。よろしくお願いします。こちらです。」
裏廊下を抜けて空調室に案内する。軋むドアを開けるとムッとした黴臭い空気に包まれる。手探りで壁の照明スイッチを探し、明かりを点けた。埃が溜まった狭いパイプスペースは、誰もが身を入れることを躊躇う空間だ。足の多い虫の死骸を見た。それは死骸であったと信じたかった。
「すみません。」
口を押えて後ずさりすると、工具箱を持った男の身体にぶつかりそうになり、その不作法と、あまりの作業環境の悪さを、思わず詫びた。
「分かりました。」
「よろしくお願いします。」
「はい、1時間くらいで終わると思います。」
「あちらに居ますので、何かあれば声をかけて下さい。」
作業員をそこに残し、オフィスに戻った。やり残していたデスクワークに取り掛かるつもりでPCを起動させてみたが、普段と違うオフィス環境にいては集中できそうにない。誰もいない。他の人のPCが起動していない。そこには影と静けさ、そして光。
1時間を過ぎたが、まだ作業は終わらないようだ。この工事さえ終わってくれれば自分もこの場を後にすることができるのに。あの蒸し暑く狭い空間でまさか熱射病なんかになって倒れてなどいないだろうか。そんなにひ弱には見えない人だった。だけど。
無駄なイメージが幾らでも湧き出す。悪い想像ばかり。たまらなくなり様子を見に行く。
少し開いたドアを開くと男の後ろ姿があった。
「どうですか、大丈夫ですか。」
「ああ、すみません。あと少しで、もう終わります。」
脚立に跨りパイプをワイヤーで固定している。
しばらく後、首に巻いたタオルで大汗を拭いながら、男が脚立と工具箱を持ってエントランスに出てきた。
「作業終了しました。確認だけしてもらっていいですか。」
またあの部屋に入らないといけないのか。
狭い部屋に二人。男は指を指しながら工事個所を説明する。埃や土汚れで詰まったパイプを新しいものに交換した、耐久性を高めるためにパイプをプラスチックカバーで保護した、といった説明を受けた。その専門的な作業の妥当性を判断することはできない。私はただそれを丸暗記し、月曜日に出社する社長に伝えるだけだ。こんなひどい空間で1時間以上も一人作業をしていた男のことを想った。こんな空間の中にいて、仕事を終えた彼の清々しさが私には快かった。
「サインをお願いします。」
作業報告書の書類を受け取り、オフィスに戻って冷蔵庫から冷えたウーロン茶をグラスに入れて盆に載せた。
「どうぞ、そちらへお掛けください。今、書類にサインしてお持ちします。」
エントランスの応接テーブルでお茶をすすめた。
「あ、どうぞお気遣いなく。」と言いながらも、男は一気にお茶を飲み干した。
「お代りをお持ちしましょうか。」
「え、いや。じゃあ、すみません。甘えさせてもらいます。」
「はい。」
差し出した2杯目を飲み干し、息を吐く男の顔をその時初めて見た。男が私を黙って見つめる。その目は、厳しい。
「動かないで。」
男の鋭い語調に、思わず息を呑んで固まった。
男は手を伸ばし、私の耳の下で素早く手を握った。そして背を向けて屋外で何かを放った。
「何、何が。」
「知らなくていいでしょう。」
「嫌、虫?クモか何か。」
「まあ、そんなもんです。もう大丈夫。」
必死に首の周りを手で払おうとしている私を見て、少し笑い、そして私の手から書類を受け取ると
「お茶をごちそうさまでした。」
そう言って男は頭を下げ、書類や道具を仕舞いワゴンへと向かう。自分でも分からないけれど、クライアントでもないのに、エントランスの外に彼を見送りに出た。何故だろう。自分が何を惜しんでいるのか全く分からない。彼が去るのを、なんだか切なく思っている。平素来客にするように発車したワゴンに頭を下げた。ワゴンは数メートル動いて急停車した。
男が降りてきて近づく。
「実は、これが東京で最後の仕事です。貴方がこんな風に見送ってくれて、おかげで、なんだか今日は自分がいい仕事をしたように思える。有難うございます。」
「最後?お辞めになるんですか。」
男は、翌日親の住む故郷の南の離島に帰るのだと言った。それだけのやり取りだった。
その刹那のやり取りが、私の胸に楔のように突き刺さった。日々、私に流れ込んでイメージを揺らがせている無限の情報を、価値無きものにする、強い実感を心に打ち込んだ。薄い2次元の日々、奥行きがない生活。僅かな言葉と溢れた心。男が成し遂げた、心遣いに満ちた丁寧な仕事。心を交わした瞬間、何かとてつもなく温かい何かが確かに私の中に流れ込んだ。永らく忘れ去っていた感覚だった。
翌日、社長に空調設備工事の完了の旨を報告した。そしてその口で、退職を希望していると伝えた。驚きこそされたが、社長は社員の転職を引き止めることはしない、と言って、ささやかな送別会を計画してくれた。
もう、これで戻れない。ここでの毎日。仕事。通勤。生きるために、食べて、寝て、暮らしていくことが自分の感覚から離れていって、いつの間にかこの都市の歯車の一つになっていた。もう一度、私の中に生きた人間の温もりの火を点してくれた、あの作業員。ジャケットのポケットに収められた彼の名刺は社長には渡さなかった。
桜井、という男。もう東京にはいない人。
建築事務所の仕事を離れ一月後、東京を後にして東シナ海に浮かぶこの小さな離島に移り住んだ。帆を膨らませる海風が炎天の下に涼風を運ぶ。かつて一度、旅行で訪れたことのあるこの島は、都市の対極でありながら、しかし地方の過疎集落などというイメージとは程遠い。かつて捕鯨や貿易中継地として栄えた島には豪邸とも呼べる石垣の重厚な古民家が並ぶ。文化が豊かで大名茶道が連綿と受け継がれている。
台風が来れば本土との物流が途絶える。金銭よりも食料こそが財であり、島民は皆畑を有している。採れたものは惜しみなく周囲に分け与える。豊かに採れる野菜や魚、卵、鶏肉。子供が中心となって行われる季節祭りの数々。
「女ひとりで本土から移り住んできたんだと。」
「38歳、巳年とよ。」
「ほら、あの芝生の敷いてある家よ。この前までお医者さん一家が住んどった白い家。」
ハイスピードWifiよりも、ひとの口から出る情報の拡散力とその力を知る。それは、何処か遠くの誰かの出来事よりも現実の日々の出来事が遥かに奇異で興味深いかを示す。誰であれ異人のすべての行動は興味の目をもって見られている。そして施錠に勝る土地のコミュニティのセキュリティ。信用に担保された安全の堅牢さ。挨拶を交わす以上の保安は存在しない。ここが秘境と呼ばれるのは、物理的に都市部から離れている為ではない。人の暮らしは集落内で都市部と同じように営まれている。それが物理的な条件以上に何か見えないものに護られている。過去から紡がれてきた時間。静かに日々を暮らしたいと願い続けられてきた想い。この地の人はこの暮らしを搔き乱される事を、好まない。同じ気持ちでいた私は、この土地に受け入れられた。この守られた静けさを、私は気に入っていた。プライバシーの壁を解ければ、より自由だ。
家の前の畑で、ささやかながら野菜作りを始めてみた。島で一つの中学校では茶道クラブの顧問も始めた。夜の室内を這う小さな虫にも、もう悲鳴を上げなくなった。
この家は、初めて訪れる者の勘を試す。カーナビゲ―ションは、システムの精度が良いものであれば別の家へと案内し、精度の落ちるシステムはこの場所への路すら表示しない。配送業者やタクシーも、一度で辿り着けたことはない。
再び訪れる際にすら、縁のない者には道を開かない。
住人となった私は、時刻よりもタイミングを重視するようになった。雲の流れを見誤ればここでは危険に晒される。スコールのような雨は視界を覆う。道端で車に轢かれ羽を折った蝶の命と、自分の命が、同じ理屈で存在し、そして何かの機に失われる運命にあることを知る。自分の耳が拾うもの、素肌で感じるもの、今見ている目の前の光景が全て。他の生き物の気配を見落せば危機が迫る。
~子供の手みたい。まるで子供同士が手をつなぐような、無邪気な、無垢な繋がり方だった。その手のひらが私の手を握っている。そしてここに連れてきてくれた。
あの時、話足りなかった。初めて会ったのに、もっと一緒にいたいと思った。私の心を私に取り戻してくれた人、その逞しさや頼もしさに、救われた。また会えた。運命を変える鍵を持っていてくれた人。会いたかった人。~
ふと目が覚めた。微睡、夢で再開したその人の幸せを、もう会うこともない彼の幸せをそっと夕日に願った。
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