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Short story_ガーデニア

香りの持つイメージを、小さな物語に表す試み
この物語から、あなたはどんな香りがしましたか?

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空気は水分で満ち、指先から滴が落ちそうだ。
いつの間にかアスファルトに射す日光を遮るまでに茂った欅やクヌギの梢の葉。
一面グレーのこの街の地上に、絵の具を散らしたようなビビッドな色。
躑躅の植栽から満開の花の甘い香り。排気ガスにも強いというので、都内の幹線道路脇には多く植えられている。
信号待ちをする交差点の一画で、通り過ぎたトラックからのゴムが焼けるような排気臭と花の香に同時に包まれる。

遠くで聞こえる、サイレン。

歩くほどに髪の毛が額の汗に貼り付いていく。
先日までは暖房が必要な冷え込みだったのに。

細い道をゆっくりと過ぎていく空車のタクシーを目で見送った。
もう少し、歩こう。

花屋で包まれた切り花を抱いて、まだ熱いコーヒーとドーナツが触れないように用心しながら坂を上る。
汗ばむ頬を密度の高い風が撫でる。
向こうの空半分を覆った厚い雲。
あれは間もなくこちらに流れてくるだろう。

坂の上、公園の満開の花菖蒲。
終りを迎えた八重桜は褐色の花殻で足下を覆いながら、葉を濃くしていく。
季節は容赦なく破り捨てられ、次のページへと捲られていく。

高樹町、天現寺、恵比寿の丁度真ん中。
1970年代に建てられた4階建てマンション。
周囲に多い大使館の職員の入居を想定した、欧米モジュールの部屋は小柄な私には自分が小人になったような気になる。
老朽化で水回りの大規模改修工事は免れなかったが、何処よりもここで長い時間を過ごしたいと思える椅子や空気がある。
バルコニーへ続く窓を開けても幹線道路の周辺の商業地の喧噪は、この丘の上までは届かない。

誰にも見つからないアスファルトやコンクリートが途切れる、ほんのわずかな土地。
植栽に隠れて見落としてしまいそうな、踏み石が一つ。
ストラップの付いた白い革のパンプスでそこへ踏み込と、その先に並ぶ踏み石がまるで突然現れたかのように、その先に続く小路。
マンションはその先にあった。

レンガ造りの建物。灯篭。植栽の中に、見上げなければ気付かない程に大きくなった木がひとつ。
褐色に朽ちた花。
ツイストしたまだ堅い蕾から風車のような花びらが開いていく梔子。
鼻を近づけると、胸騒ぎを覚える。

うす暗い寝室の壁にかかった鏡。
揺れる青い耳飾り。
鏡の脇のドレッサーの上に置かれたグラスの淵に、似たような色合いのドロップピアスばかりが掛かっている。

これが私にとっての寓意だったことに、今更気づかされたのは梔子の花の香りがしたから。

手の届かない、憧れの先にあった、「いつの日か」を、まるでこの季節を色で表すような、くすんだブルーやグリーンの石の色。

大人になればきっと。いつかきっと。

オパールはその角度や光によって玉虫の背のように色が移ろう。森の木立に囲まれた湖面のようだ。
アンティークシルバーのドロップピアスに嵌めこまれたグリーンダイヤモンドとターコイズは、こことは違う時間や場所へも、意識さえ向ければいつでも旅することができる、そんなひとりの大人の自由や強さを思い出させてくれる。

耳に付けるピアスやイヤリングの装飾は鏡を見なければ自分ではその様子を見ることが出来ない。
首を飾るチョーカーもそうだが、顔の位置に近い分、耳飾りは視線を向ける人の記憶にその印象を刻む。

スモーキーアクアマリンが揺れるドロップピアスを透かして見ると、半透明の中で輝く光の中に、あの頃、夢見た情景が映る。

白い花から香る重く甘い匂い香りに、うっとりするよりも先に、過去が浮かび上がる。
奥歯の神経を失うほど、歯を食いしばらなければならなかった、ずっと昔。

毎日、生きているだけで傷の数は増え、深くなっていった。
ランドセルは地獄へ向かうための装備。
横に下げた給食袋が揺れる、登校の列。月曜日の朝の腹痛。

梔子が咲く頃は、毎年学校のプール開きがある。
甘い花の香りからは、冷たい消毒槽の塩素の臭いが蘇る。
泳げない私は、足の届かないプールの深みに押し流されて、水を肺まで吸い込む。
助けを求め無茶苦茶に空を掴む手はふざけているとしか思われず、意識のある間に引き上げられることは無かった。
毎年、それは繰り返され、私には回避する術はなかった。

私には食材にも料理にも好き嫌いは無かったのに、給食の時間になるとなぜか全く食欲が無くなる。
ひと口、無理に口を付けてみても、あとは食べられない。
それは周囲に偏食と受け取られ、午後の授業の間も一人、ひとり机の上には給食の盆があり、その前で俯いている。
毎日のことだった。

今のように不登校という選択肢がなかった頃のこと。
クラス全員皆勤をクラス間で競う様な時代。

クラスメイトの誰かが最初に休んでくれることを願いながら、欠席する最初の一人になることを誰も皆、恐れていた。
発熱があろうと、流行病に罹ろうと、一旦は登校する。
積み上げてきたクラス全員皆勤を、自分が最初の欠席者になって崩すよりひどいことは無かったから。
皆が本能的に、集団を恐れていた。
もっとも小さな単位のこの世の縮図だった。

今、そんな話をしてみても、どこか真実味の遠い、悪夢のような、ただの過去の話かもしれない。
かつて、私が聞いた戦争中の頃の小学生の話のように。

それでも、私は生きて来た。
絶望することはなかった。
それは「いつかきっと」の、いつか、ばかりを想っていたから。
いつか、は悪夢の日々の中で膨らんでいく夢の日々。
どんな苦難の時も、耐えたのは「いつかきっと」が待っているから。
テレビや映画で見た、大人の主人公が生きる日々。
世界中、他の何処でもない、いろんなことが起こる東京という場所で。

大人になれば、好きな場所に住んで、好きなものを手に入れ、好きなことをする。
あのころ夢みた生活や暮らしがある。
テレビドラマで見た大人の女性の耳には意中の男性から贈られた青い耳飾りがあった。
大人になれば、こうなる。それが世界の仕組みなのだと信じていた。

鏡に映った自分の耳元に揺れる青い石。
雲の間から覗いた初夏の日差しが部屋を一瞬明るく照らした。
気に入った椅子とその背にかかったストール。


クローゼットにはあの頃、母親の読んでいた雑誌の写真を見ていて、いつかきっと、と思い続けた通りの服が揃う。
小さな外国製のハンドバッグ。
手入れされた靴。
洗面所のドアを開けるたびに、先程活けられたばかりの大ぶりの薔薇の花が香る。
細く空いたバスルームの窓から見える東京のグレーの空と隙間の無い地上。

湿った風に、梔子の薫りが満ちる。
今は、もうこの馨しさを歓べばいいだけ。

ここではもう、今はもう、誰も何も、私を脅かさない。

終わったはず。
もう、学校のあのクラスに通う必要はない。
大人になっている。もう学力試験は追っては来ない。
今は誰も私を蹴り落そうとはしない。
もう、歯を食いしばらなくていい。

血の気が引いていく記憶の中の恐怖を、なだめようとする。

ほら、私は今、大きな病院で勤めている。
やりがいのある仕事もある。
職場の空気も悪くはない。
大丈夫、時間は過ぎた。
全部、あの頃の「いつかきっと」の通りになった。

だから、もう恐れることはない。

ところが、私が時を経たのと同じように、世界が齢を経ていた。
あの頃憧れていた大人たちは、私が大人になれば直接会えるはずだった。
しかし、彼らは私が大人になるのを待たずにこの世を去っていった。
掴もうと、そこに行こうと、手を伸ばそうとしていたものにようやく手が届きだした今、消えていく。
私を待たずに、いろんなものが消え去っていく。

私が大人になるまでの間に
世の中は「大人のもの」から「子供のもの」に変わっていた。
私は未来に夢を見て、そして、いつの間にそこを通り越してしまったのだろうか。
いつか、はいつの間にか自分の後ろにある。

何度も何度も、この敷地の中で咲き続けてきたであろう梔子。
その強い香りの中に閉じ込められた記憶が離せなくなる。

いつか、は永遠にいつかのままで、「今」になることはないだろう。
そう気づいたあとでも、この香りの中にあの頃の、いつか、は輝いている。
耳飾りの中にみる夢を、この季節に思い出す。


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