見出し画像

Short story_our fine days

PENHALIGONS_Lavandula

*実験*****香りからイメージへ、イメージから生まれる香り****


「こうやって、見上げていると怖くなるの。この空は底無しで、どこにも足が着く場所は無くて、何処までも落ちていきそうな気がして、怖いの。」
新宿御苑の芝生に敷いたヨガマットに仰向けになったまま、スミレは言った。
「ねえ、この空の向こうには宇宙があるなんて、信じられる?」
そう言われて、私も空を仰ぎ見た。

高いビルやマンションに縁どられた天に無限の青いスクリーンが広がる。秋の終わりのとても晴れた日。

確かに、SF映画にあるような宇宙をこのスクリーン上に見たことは私は無い。


平べったい輪をウエストに据えた星。

様々な色をした球体。

遠くに渦巻く星雲。

輝くガスそして暗黒の雲。


夜空にだって、肉眼ではそんなものは見たことがないものね。
そう、この眩しく目を射る青も、あと何時間か経てば闇が覆う。実際にはこの足元にある地球のほうが周っているのだと知っているけれど、実感できるのは足元ではなく、天上の移ろいの方だよね。たしかに。


「ねえ、宇宙って本当にあるの?」
スミレはまた私に向かってそう聞いたけれど、それは質問なんかではなく、宇宙は本当は存在しないのではないか、という彼女の確信にも近い主張だった。
この空を捲れば、その先に宇宙があったとして、100っ歩譲ってそれを認めるとして、じゃあなぜその宇宙の中に、私たちが生まれ、こうして生きているの?一体私たちは、宇宙の中で何をやっているの。

とても小さく、か弱く、精巧なつくりをした、生命として。

スミレは起き上がり、ヨガマットを丸めだした。絹糸のような栗色の髪の毛が乱れ、毛束が光を透かして輝いた。
「スミレはこの後どうするの?」
「うーん、帰ってピアノの練習でもするか。アヤメは?」
「偉い!って、来週は実技のテストか。じゃあ私も今日は帰るか。」

スミレと私は器楽専科のある高校に通っている。スミレはピアノ科で、私は弦楽科。クラスは違うけれど2年前、入学式の後のオリエンテーションで、隣の席になった。私がスミレにペンを貸したのがきっかけで、それから廊下で私の顔を認めると、スミレはすれ違いざまにいつも小さく腰の横で私に手を振った。

その秘密めいた、或いは、意味の分からない遠慮がちな挨拶に、私も小さく手を振って返すようになった。

でも本当は、私はもっと前からスミレのことを見ていた。

この高校を受験した日。
とても寒い、晴れた日。
演奏の実技試験だった。演奏室の前の廊下に並んだ、待合の4つのパイプ椅子。ひとつの空席。誰か試験を欠席するのだろうか。
自分の実技試験の順番が近づく。待っている間、緊張で無意識に強く手を握ってしまう。
咳をすることすら躊躇われる演奏試験中の部屋の前、突然、バタバタという足音がリノリウムの廊下に響いた。
しっ、と監督員の先生の無言のお叱りを受けるのと同時に、急ブレーキで部屋の前で立ち止まった子。前の受験者が演奏室から出てくるのと入れ替わって、肩で息をしながら演奏室へ入って行った。
それがスミレだった。紺色のブレザーにタータンチェックのマフラー。その上に広がった栗色の髪。桃色に染まった小さな顔、強い眉毛、そして、黒々と丸い瞳。何てきれいな子なのだろう。一目で釘付けになった。

実技試験前に走ってくるなんて、息が切れていたけれど、大丈夫かな。
自分が別部屋での試験に名前を呼ばれるまで、その試験部屋の戸から洩れるピアノに耳を澄ませていた。

実技試験の直前に見た、慌ただしくも美しいその子の印象は強すぎた。自分の実技試験の演奏よりも、あの子がどうなったか、ちゃんと最後までピアノの課題曲を弾けたのかが気になってしまった。

落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて、重厚に、バッハの楽譜に向かってそう自分に言い聞かせてきたものは、吹き飛んで、チェロの弓は快活に課題曲を奏でた。あの子の印象そのままに。

だからスミレの方から、初めて話しかけられた時、私は驚いたし、なんだかよく分からないけれど嬉しかった。それから、彼女がぼそぼそと話す声や、突飛な、禅問答か、と思う様なことをぼそっと話す、会話のような会話でないようなおしゃべり、そんな事が心地よくて、帰り道、一緒にいるようになった。
クラスの他の子たちはいつも、声が大きくて、誰かの恋の噂やネットニュースで聞いた話を広報車の拡声器のようにまき散らしている。自分が何を感じ、何を思っているのかを、私に伝えようとしてくるのはスミレだけだった。たとえ、その言葉は不器用だったとしても。

外苑前の道。二人の並んだ影はアスファルトの上に長く伸びる。
「そうだ、ねえ、今度宇宙を見に行かない?」
スミレは目を丸くして私を振り返った。
「どうやって?」
私は子供の頃に行ったプラネタリウムのことを突然思い出したのだ。
色付き始めた銀杏。
「そうよ、プラネタリウムに行こう。作り物かもしれないけれど、宇宙が見られるよ。」
「私、行ったこと無い。プラネタリウム行ってみたい。」
「じゃあ、来週の土曜日。試験が終わったら行こう。」


私は卒業したら音楽と関係のない短大に進むつもりだ。自分の部屋の片付かないデスクの上に積まれた応募要項入りの封筒。
スミレは、まだ進路を決めていないと言っていた。
あと4か月で、本当に私たちは高校を卒業してしまうのだろうか。このとても自然にめぐる毎日が終わる時が来るなんて、信じられない。

在るのか無いのか、見たこともない私たちの未来なんて、宇宙と同じくらいその存在は疑わしい。
ご飯よと、階下から叫ぶ母の声がする。いつの間にか陽は落ち部屋は暗い。部屋の窓の外、には、インクブルーの世界に小さなオレンジ色の東京タワーや変な形の高層ビルやマンションが浮かんでいる。

最後の期末試験を終えた。現代文や数学の教科書なんてもう重いだけの荷物でしかない。もう二度と開くこともないだろう。受験シーズンに入り、学校に来る生徒も減った。
帰るなりカバンを部屋に投げ出して、明日、プラネタリウムに来ていく服を選ぶ。もう朝晩はとても冷える。半年ぶりに厚手のストールをクローゼットの奥から取り出した。

渋谷駅で待ち合わせた。改札の向こうから細いシルエットが速足で近づいてきた。スミレだ。
あれ、こんなに大人っぽかったっけ。

もちろん、美人の部類の子なのは今までも変わらずそうなのだけど、いつもはどちらかと言うと小さな色白の丸顔という可愛さが勝っている。けれど、なんだか今日は、お姉さんに見える。紺色のペンシルスカートと白いセーターにスカーフ、ショートブーツ。栗色の髪は背中に流れている。

プラネタリウムは、映画よりもリアリティのある空間だった。子供だけではなく、大人もたくさん来ている。

リクライニングを倒すと本当に外で天を見上げているようだ。星の解説。笑えるギリシャ神話と星座の解説には二人一緒に笑い、二人とも好きなエリック・サティのBGMには聞き入った。45分はあっという間だった。照明が明るくなり、急には現実に戻れず戸惑いつつ席を立つ人たち。スミレと私も現実に引き戻される。
「面白かったね。意外にも。」
このプラネタリウムの席に着いた時から、なんだかとても空気がいい気がする。吸い込みたくなる、空気。何かの、いい匂いがする。スミレ?
「面白かった。そして私はお腹が空きましたよ。」
「あははっは。そうですな。行きますか。」
「行きますか。小籠包!」
「賛成!」

二人で何度か行って、大好物になった小籠包が名物の台湾レストラン。
メニューを差し出して私に渡そうとするスミレの腕から、香りがした。柔らかい、そして植物の匂い。花なのか葉なのか、懐かしいいい香り。
「ねえ、スミレ、なんかいい香りがするんだけど。何かつけてる?」
「 分かった?もらった香水なんだけど今日つけてみたんだ。」
と言って自分の腕をまず鼻にやって自分で香りを確かめるようにして、それから私の方にも差し出した。
傍に近づかなければ分からなかったけれど、確かにスミレの肌から薫る。
「いいね。これ、この香り好き。今日のスミレにあってる。」
「ありがとう。」
何時までも高校生のままでいる自分を置き去りにして、スミレはどんどん大人に向かっている気がした。
「ねえ、でさ、結局宇宙を信じられる?」
私が尋ねると、スミレはただ笑っていた。
小籠包の後は、輸入文具屋や古着屋をのぞいたり、CDショップを回っていると早くも陽が落ちかけていた。
「あー今日のプラネタリウムは面白かった。とりあえず、今日は宇宙に行ってみた休日って感じ。」
「じゃあ宇宙は存在をついに認められたのね。」
「SFよ。宇宙は私にとってSFの話よ。」
「あははは。」
サラサラの髪の毛、桃色の頬。スミレ、初めて見た時と同じように、私にとってあなたは恒星のように輝いている。


スミレ、残念ながら宇宙は本当にあるみたい。まったく知らない世界が、この薄い空のスクリーンの向こうには存在するんだ。私にとってはスミレのいない世界は暗く冷たい宇宙。でも宇宙のどこからかこだまする、静かな絶対4度のエネルギー。

確かにある時起こったビッグバン。

どうか今を忘れないで。


いいなと思ったら応援しよう!