見出し画像

東京残香_V.湯島

竜脳 香料原料 

垂直に聳えるような急階段を上る
崖に壁を接して建つ色褪せたラブホテルの看板
隙間なく立ち並ぶ民家の屋根
側溝の幅だけの路地と砂利
黒猫が横切る
崩れかけた塀
半分だけ枯れた植栽の紅葉
陽の射さない土地

古くから崖を保った石垣

どれほどコンクリートが覆ったとしても、欅の根に崩され、その隠された時間が露になる。先刻の猫の目が建物の陰で光る。

シャンシャンシャン
何処からか聞こえる神楽鈴の音。篠笛の音と神楽太鼓。強い風に引き千切られた音が、耳に届く。
神楽の稽古だろうか。この辺りには寺や神社の社務所が多い。祭りの練習か。
秋葉原の喧噪を崖下に見る。仏壇のある家、寺、どこからか線香の香が漂う。

台地となった高台からの風景は長くは続かず、少し歩けば再び急な下り坂を迎える。
明治、大正、昭和、平成、そして...。
今度は突然、プラスチックでできた子供騙しの書割りの中に紛れ込んだようだ。電気街。貧しい感覚に正確に照準を合わせれば、このような世界が出来上がる。微かに感じられる、人間のか弱い息吹。幼形成熟の先に見るスーツ姿の人間の群れ。神田川の上に架かる歩道橋の上で立ち止まり、通り過ぎていく電車を見ていた。
その私を、片眼が白濁し腰の曲がった老人が、私の前で立ち止まった。
「あんた、どこから来た。」
橋を渡る電車の走行音にかき消されることもなく、はっきりと聞こえた。電車が過ぎ去り、私はようやく言った。
「私が見えるのか。」

地下鉄のホームでじゃれあう小さな兄弟。電車がホームに入る電子音声のアナウンス。そこに居た大人たちは全員、小さな端末を手にし、そこに見入っている。おそらく兄弟の父親か母親もその中の誰かだったのだろう。はしゃぎまわる2人の小さな男の子は笑いに腰を取られて足がもつれる。一人がホームの端でバランスを崩し、その姿をホームに進入しようとする電車のヘッドライトが照らした。耳を塞ぎたくなるほどの長く大きな警笛の音。何かを考える余裕はなかった。私は自分の腰より背の低い子をホームの内側に力いっぱい突き飛ばした。その反動で私の身体は線路の上、宙に舞った。

気が付いた時、真っ暗な場所に居た。そうと知れたのは、向こうから洩れる小さな光を見たからだ。光の形は大きくなったり小さくなったり形を変えている。ただ必死に闇の中、その光へと向かって走った。闇を飛び抜け光の外に出ると、そこはいつも通勤で使う地下鉄のホームだった。
振り返ったが、自分が抜けてきたはずの闇は、もうそこにはない。夢でも見ていたのだろうか。或いは、今この時が、夢の中なのか。変だ。帰ろう。家に帰ろう。家に。地下鉄の駅を出て地上に出る。夜なのだろうか、それとも昼なのか、暗い。しかし、たくさんの人間や車が通るいつもの言問通りだ。家へ、自分の家へ帰ろう。
家は、何処だ?どうして。家が思い出せない。自分の家。私は一体何処に帰るのだ。この辺りの風景、とても良く知っている。自分はいつも、普段からこの辺りにいる。しかし、家の場所が思い出せない。家。どんな、家だったか。この坂、そうだ、坂を上るのだ。いつも毎日のぼる坂だ。ガードレールの内側、狭い歩道、すれ違う人と肩がぶつかった。
「すみません。」
謝ると、相手は怪訝な顔をして一瞬足を止めたが、そのまま行ってしまった。そうだ、誰か知り合いに会えたら、自分を知っている人と話ができたなら、きっと全て思い出すはずだ。今、ただの度忘れということだ。人に聞けばいい。私を知っている人に会えれば、それで何もかも思い出すだろう。大したことない。度忘れだ。誰でもいい。よく通うコンビニエンスストアがあった。中に入った。暗い。照明でも切らしているのだろうか。いつもの顔なじみの店員がいた。焦っている姿を見られるのも、恥ずかしい。ひとまず冷静を装おうとして、欲しくもないガムを一つ手に取り、レジへと向かった。レジに立ついつもの店員は、何も反応しない。
「あの、これ。すみません。」
数秒して、店員は後ろを向いて何か作業を始めてしまった。何か無視されるような意地悪をされているのだろうか。
「あの、すみません。」
大声を出すが、店員は振り向かない。それどころか周りにいた誰も自分を見ない。そのうち別の女性がレジに近寄ると店員は客の方を向いて愛想よく会計を始めた。どうなっているのだ。ふと、レジ横のドアに張られた歪んだ鏡をみると、レジで会計する女性と店員は映っているが、その手前に立っているはずの自分の姿がない。冷や汗が出て店の外に出た。店内同様、やはり外も暗い。晴れているのに。夜ではないのに。日が暮れる前に家を探したい、いや、思い出したい。私の家は何処だ。この近くのはずだ。今何時だろう、と腕時計を見ると、時計が動いていないことに気が付いた。電池切れか?
そのまま、辺りを歩き回った。とても良く知っている。ここを歩くのがとても自然に思える。自分はこの辺に住んでいるには違いない。次第に歩き疲れてきた。時計は止まっているが、少なくとももう、1時間以上は休まずに歩いているはずだ。ふと、暗い空を見上げてぞっとした。太陽が動いていない。さっき見た高さから変わっていない。どうなっているのだ。
誰も私を見ようとしない。鏡の中にも、自分を見ることができない。
暗い太陽は、私の影を地に作らない。時計は止まった。

随分、醒め難い夢のようだ。

私が抜け出した、あの闇。あれは、夢ではないとしたら、一体なんだったのだろう。
何か、とてつもない、絶望を感じる。それが何なのかは、よくわからない。何かは分からないが、これは、私にどうにかできる状況では無いのかもしれない。認めたくはないし、事実を知りたくもないが、しかし。
それを確かめる術も分からないのだが、私はもう、死んでしまったのかもしれない。その考えは諦めとともに私の中に浮かんだ。
私は、自分の家を探して歩き続けた。その他に何もできることもなかった。ただその辺りの外には自分の居場所を思いつかなかった。歩いて行ける範囲。電車に乗らない程度の範囲に私の生活の場があるはずだ。ずっと歩き続けた。夜も昼も、一日という時の巡りが、無くなっていた。時は進まない。湯島、神田、本郷、根津、秋葉原。どこも、どの道もとてもよく知っている。細い道も方向も、今自分がどこを歩いているかもよく分かっている。ただ自分が辿り着くべき家が、思い出せない。一度たりとも、太陽は沈んでいないのだが、私は既に、一週間、いや数か月、この周辺を歩き回っている気がする。

私は、老人の皺だらけの手を握った。秋葉原、歩道橋の上。
「私が、分かるのか。見えるのか。」
腎臓でも悪いかのような、顔色の悪い老人はうなずいた。そして手招きをした。その老人についていくと、歩道橋の橋の下だ。彼はここに居を構えていた。それはリヤカーとそれを覆うビニールシートでできている空間だった。いわゆる、そういうことだ。
「頼む、教えてくれ。あなたには私が見えるのか。どうしてなんだ。それから私は家を探しているんだが、何か知らないか?何か知っているなら教えてくれ。どうして、私はこうなってしまったんだ。」
老人は大儀そうに釣り用の折り畳み椅子に腰を掛けた。
「あんたは、向こうに行かねばならない。嫌でも、こっちに、あんたの居場所はない。」
「どういうことだ。」
「分かっとらんのか。もう、あんたは生きてはいないよ。」
どこかでそういう予感を持っていたが、誰かから実際にそう聞かされると、胸が抉られるようだった。
「どうしたらいい。ここでずっと家を探しているのに、家は見つけられない。思い出せないんだ。他に行くべきところがあるのなら、教えてくれ。教えてくれたら行くよ。私が行くべきところに。」
私は老人に懇願した。
「新月を待て。」
何かを聞き出せ、何かが改善することを期待をした自分は、再度深い絶望に落ちた。
「駄目だ。ここでは太陽すら動いていないじゃないか。見てみろ、私のこの腕時計も止まったままだ。」
時計を嵌めた腕を突き出したが、力が抜けてそのままその場に蹲り、頭を伏せた。泣きたいのだが、涙も出ない。
「向こうの新月だ。ここにいたんじゃ、分からない。」
「分からないものをどうやって待つ。」
半ば怒鳴りながら聞いてしまった。老人は長く咳を続け、しばらくして言った。
「向こうが知っているんだよ。新月を知っている。そして、闇が開くのを用心している。闇が閉じるのを見届けるまで、ずっと見張っている。」
「それで、」
「だから、お前にも新月は分かる。向こうが教えてくれる。」
何を言われているのか、全く意味が分からなかった。しかし、一番知りたかったことを教えてもらった。一番、聞きたくはなかったことだが。私はもう生きてはいない。

ふと見ると、老人は居ない。毛並みのだいぶ荒れた、白内障と思われる不透明な目をして茶色の目ヤニを流した黒い猫が、老人の座っていた釣り用の椅子の上で丸くなっている。

秋葉原から、枯れた蓮に覆われた不忍池を通って、本郷に向かう崖を上る。もはやあてなど無い。高台に建つ大学から見た崖の下を埋めるいかがわしさ。聖と徳、俗と欲は高低差をもって空間を隔てている。地理的高低差以上の境界が存在する。
平凡な日々と何一つ変わることなく動いている街。私にはただの薄暗い夢。
シャンシャンシャン
また鈴の音を聞く。香を焚く香。とても近くの様だ。寺か、墓か。
シャンシャンシャン、ドーン、ドーン、
聞いたことのない節回し。これは一体、祭囃子なのか?
音が近づく。しかし、祭りの様子はない。それは古い寺のような敷地から聞こえる。その敷地へと繋がる小さな木戸は開いている。どうせ、自分は誰にも見られていない。入っても構うものか。音に誘われるように木戸の中に入ってみた。自分のすぐ目の前で鈴や太鼓や笛の力強い演奏が聞こえる。しかし、私の前には囃子方は見えず、ただ空中に黒い闇がぽっかりと空いている。音はその闇の中から聞こえる。何か節回しがり、音に乗って言葉が聞き取れる。この囃子には歌詞があるのか。私は耳を澄ませて、言葉を聞き取ろうとした。

新しい時節の巡り
その始まりを迎える時、刹那の不連続
此の世とあの世の接するところ
祓え 祓え
こちら側は、命が廻る世
あちら側は、命眠る世
来べからざる向こうに棲むもの
こちら側に迷い込むな
こちら側は歓喜が満たす命の世
生を終えたものは向こう側
闇の狭間に落ちれば、どちらにも行けない、彷徨い続ける
新しい時節の巡り
祓え 祓え 新月の夜

新月、新月と言っている。全身の震えが止まらない。しかし、私はこの闇を抜けて、行くべき側に行くしかないのだろう。
囃子の音は大きくなり、詞は繰り返される。
香の薫りがした。私は最後の勇気をもって口を開けている闇に飛び込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?