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Short story _Vintages_

Dark Amber & Ginger Lily_ JoMalone

***

イメージを想起させる香りがある。香りを想起させる物語がある。
感覚的実体をもたない、個人のイメージに、香りという実体を与える試み。
あなたはこの物語からどんな香りを感じますか?

****



薄く埃が覆っているピアノの蓋を、そっと開いてみる。
鍵盤をひとつ叩くと
部屋に差し込む朝の光が、そのまま音になったかのような透明な響きが零れた。

ピアノの上に置かれたアンティークのラリックの香水瓶には僅かに液体が残っている。
手に取り蓋を取る。
光るような香りが湧きたち、その後にゆっくりと甘くスパイシーな香りが広がった。
暖炉を思わせる温もりスパイスのような深い甘さ。
彼が不在になったこの世界で、
彼の体温に触れているようだった。

***

夏の生命が激しく燃えた熱を
流し去ろうとする静かな雨が降る日。

橙色の小さなスタンドライトが点るウォークインクローゼットの中から眺める世界は青い。
窓の外に広がる雨の街は、寝室の奥まで青く染めていた。
ハンガーに手を伸ばし、シルクの手触りを確かめる。
このドリスバンノッテンのワンピースに袖を通すのも、今年のシーズンではは今日が最後だろうか。

アスファルトを跳ねる水滴を思うと、雨用のラバーのアンクルブーツを選ぶべきだ。
履いてみた姿を姿見に映し、ワンピースから伸びた足元を見て、再び思い直し、シューズラックの上のブルーエナメルのパンプスを選ぶ。 
そして棚の上からエッグシェル色の細い傘を手に取った。

リビングのテーブルの上で開かれたラップトップPCの画面で今日の待ち合わせ場所と時間をもう一度確認し、連絡先が記載されたメールを探して、それをプリントアウトし、折り畳んでボックス型の小さなバッグに入れる。
文末の署名をもう一度見る。

ジャーナリスト 小田英二


既に待ち合わせ場所のウェスティンホテルのロビーに到着していた小田英二は、エントランスの私を認め、立ち上がった。
「塩川真由子先生でいらっしゃいますか。小田です。初めまして。お忙しい中ご足労いただきましてどうもありがとうございます。今日はよろしくお願いします。」
「塩川です。よろしくお願いします。」
形式的な挨拶で、少し頭を下げた彼の仕立ての良いブルーグレーのウールのジャケットの肩から香った温かな空気が意外だった。

私は会ったことのないその人のイメージに、ニコチンやコーヒーの匂いを勝手に重ねていたから。
これまでは、ラジオやテレビから頻繁に聞こえてくるその人のゆっくりとした口調や、丁寧な抑揚ある低い声だけを知っていた。
荒ぶる世の潮流を読み解き、広く人に理解を促すために語るジャーナリストという彼の生業に、もっと苦い匂いを想像していた。

レセプションに寄り、ホテルスタッフの案内で上階のビジネススイートへと向かう。

彼の背の後ろに着かずとも離れず、ウェスティンのロビーの中を進む。

静かなエレベーターの中で、彼は私の方を振り返り「雨は、大丈夫でしたか」と静かに尋ねた。
不意の問いに戸惑いながらも頷いた。それは、声にはならなかった。
傘の柄を握る手に、無意識に力が入る。

エグゼクティブスイートのオフィスルームの中、ホテルスタッフが小田の指示でふたつの椅子を窓を背にして配置する。

窓の向こうに広がる一面のブルーグレーの世界
空と街が溶け合い、境目がない。
遠く向こうの雲の端から零れる微かな光。
それは東京にしかない光景だった。

「塩川先生、どうぞ楽になさって下さい。飲み物を頼みますが、何がよろしいですか。」
「私は、お水で結構です。」
「そうですか。」
「あ、あの、できれば炭酸水をお願いできますでしょうか。」
「炭酸水ですね。」
小田はスタッフに炭酸水とアイスコーヒーを注文した。

飲み物を待つ間、小田は一人で録音機材をセットアップし三脚に小さなカメラを据え付けていた。
編集による意図しない効果が大きい録画での取材を断わり、カメラマンを入れず小田のみとの対談という条件で取材を受け入れた。

私は3年前にIAEA国際原子力機関の技術者を辞し、今は都内の大学で原子力工学専攻の教授として勤務している。
専門は核燃料廃棄物の地中埋設処理だ。
国内の放射性廃棄物埋設処分について情報収集をしていた小田英二から、インタビュー取材を申し込まれた。
小田自身にレクチャーを行うとともに、私が話した内容は記録され文章と音声で使われる可能性があるとも伝えられた。

私が話す科学的な事実は、日本国内の地層中に放射性廃棄物を埋設処分することの重大な危険を示唆する。
国の現行政策を正面から批判する材料になるだろう。
科学的な事実と政治的意図は無関係だ。
それでも、事実を語れば低レベル放射性廃棄物埋設処理が如何に愚策であるのかは、誰にでも分かる。

一方、埋設候補地への利権、工事に伴う資金流入は、破綻寸前の自治体を維持するために唯一、国から垂らされた1本の蜘蛛の糸だ。

既に進み始めた計画に異を唱えることは、濁流の流れに逆らって進むようなもの。
一方で濁流の流れるままに流されれば、その先の無間地獄に落ちてゆくことも知っている。無間地獄へと向かう流れを変える力は私にはない。


「素敵な傘をお持ちですね。」
小田は私の傘に目を止めた。
「これですか、もう古いものです。20年以上も使っています。」

手にしていたFOXの傘を手に入れたのは、20代の終わり頃のこと。
ある霙が混じる雨が降った日、表参道の地下から地上に出て、差そうとしたビニール傘は壊れていた。
雨を払いながら足早に向かった骨董通りで、傘が並ぶVALCANIZEに入った。
フェミニンなフリルが付いた傘や、マスキュリンなスティックのような傘までが並ぶ。
木や革でできたハンドル。
手にしたレザーハンドルは滑らかで腕に掛けても優しく、冷めきった指先の体温を奪わない。
その時初めて、それまでのビニール傘のプラスチックハンドルでは、手に痛みや冷たさを感じていたのだと知った。

レザーハンドルの畳むと細いエッグシェル色の傘。
小さなシルクのタッセルが揺れる。


写真撮影用のLEDライトの照明だけが眩しい部屋で、小田からのインタビューが始まった。
インタビューの間、私の話が専門的になると、彼は誤解がないように、尋ね方を変えながら幾度も説明を求めた。
私はノートを取り出して、時に図を描いたり用語を書き出したりした。
大学で講義を受ける学生だって彼ほどには熱心ではないだろう。

小田は、私が予想していたよりもはるかに専門的な内容についても質問を投げかけてくる。彼の事前調査は綿密で、逆に私の方が埋蔵処分候補地の地元民と首長との意見の違いなどの実情について彼から聞き学ぶことになった。
時折、取材を乱すと分かっていながら、こちらから小田の考えを尋ねてみたりもした。

ジャーナリストという立場では当然核燃料廃棄物埋設の国の政策に反対するための情報収集なのだろうと思っていた。
しかし、彼が私に語った限り、彼は埋設処分の推進でも反対でもない、中立的だった。
何よりも、是か非かを判断するための材料を集めたい、そう言った。

そして、その日のインタビューで小田の語調は、メディアに出て鋭い切り口で政治家に問いかけ人気を博しているジャーナリストのそれとは全く違った。
学生を諭す立場になってしまった自分も、こうありたい、と思うほど、相手を委縮させずに話を聞き出していく。
小田からなされる落ち着いたトーンの問いかけは、若い学生たちから性急に解を求められる問とは異なり、私の肩の緊張を、緩めていく。


インタビューが終わりレコーダーマイクのスイッチが切られた時には、開始から裕に3時間を超えていた。
陽は沈み、部屋の中で点るランプが二人分の影をつくる。

小田は“この取材を基にした原稿や音声のリリースによって、私への不利が生じないように配慮する”と言っていたが、私自身はその時点でその意味の深刻さに気付いていなかった。

機材を片付ける小田の後ろでは、東京のビルの窓に浮かぶ散り散りの無数の光が目に滲む。

「今日は貴重なお話をどうも有難うございました。大変勉強になりました。すっかり長時間になってしまいました。お疲れになったでしょう。」
「いえ、私の拙い説明を丁寧に聞いていただけて、こちらも有難かったです。」
「もし、お疲れがひどくなければ、時間も時間ですから食事はいかがですか。それとも、もう私と話すのは沢山だ、ということでしたらすぐ車を用意しますのでおっしゃってください。」
「正直なことを言えば、」
「はい」
「実は、お腹が空きました。」
小田は笑って、私に寿司は好きかと聞いた。


新橋の寿司割烹のカウンターで冷酒を酌み交わす頃には、
数時間前に初めて会った相手とは思えぬほど、私の小田に対する警戒心は消えていた。
小田は、言い難そうに言った。
「こちらも取材対象の方については、事前に情報収集をさせて頂いてます。けれども、お写真やプロフィールを見ても、塩川先生がどういう方なのか全く予測ができませんでした。大抵の人がそうですが、あなたは特に、撮られる写真によって全く別人に見える。もちろん、ご経歴や社会的なお立場からは、しっかりした女性であるとはわかるのですが、果たして。」
「対男性、対ジャーナリストに、どう出る人物なのか、戦々恐々とされていたのでは。」
小田は苦笑いをする。
テレビ番組では彼は女性ジャーナリストとも論争することもある。

写真撮影される時に緊張感があればそれはそのまま写真に現れ、その写真は私をきつい人間に見せる。私は感情が無意識に表情に出過ぎるのだろう。

「その通りです。ジャーナリスト失格なのですが、私は正直あまり女性との1対1のやり取りは得意ではありません。今日もカメラマンが入らない取材だったので、お目にかかるまでは気が重かった。ああ、いや、変な意味ではありません。ただ、自分がどこまで有用な話を引き出せるのかという点で少々不安でした。私のインタビュアーとしての力量の問題です。」
「そんなことを、明かしてしまっていいのですか。」
「私の杞憂は、あなたの、その素敵な傘を見て、そして20年も使っていると聞いて、解けたのです。」

これまで小さなハンドバッグを褒められることは多かったが、
この傘を褒められたのは初めてだった。


若い頃に背伸びをして、このFOXの傘やいくつかの小物を手に入れた。
ブラックパテントレザーの小さなハンドバッグ。
華奢なストラップのアンテプリマのリザードのヒールサンダル。
忘れたくない想いをその都度結晶させていくように、ひとつ、またひとつと増やしていったエムアッシュテのビタミンカラーストーンのジュエリー。

手に入れた時の情景、想い、緊張や覚悟。
40歳を過ぎて、そんなことにもすっかり慣れてしまっている。
収入も限られていた若い頃に比べれば、今では買い物をすることへのハードルは下がったはず。
しかし、いつしか買い物欲は全くと言っていいほど失われていた。

自分の中の何かが変わってしまったのか、
或いは、街に並ぶ商品がつまらなくなったのか。
このごろは、買い物はといえば、必要なものの調達のことで、かつてのような何かを手に入れたくて街に出かけるようなショッピングの楽しみは感じられない。

その代わり、人生の中で10数年を超えて手元に残った自分の中のビンテージ小物を取り出しては使っている。


数時間に渡るインタビューを終えた後にも拘らず、小田との会話は尽きなかった。
新橋での終電車に間に合わせるつもりが、もう間に合わないと分かると、さらに少しでも長く話を続けたかった。
店の暖簾が片付けられる頃、ようやく店を出て小雨の降る通りでタクシーを止める。
「仕事も、仕事の後も、今日は本当にいい話を聞けて楽しかったです。」
「私も楽しかったです。ごちそうさまでした。」
車が止まり、ドアが開く。私を車に乗せる別れ際、慌ただしく「また、そのうち」
彼はそう言ってその夜別れた。
タクシーに行先を告げる。
雨に濡れた袖口が手首に冷たい。
薄暗い雨の夕方に小田から香ったナツメグの温かさを思い出していた。


小田が私に行ったインタビュー内容のリリース日は、出版社を通じて事前に連絡を受けていたものの、仕事に追われて失念していた。
リリースされる文章の内容はもはや小田のものであって、私が目を通すような類のものではないもの。
そう思っていたから。
研究室への無言電話と、大学宛てに届いた私を殺すという脅迫メールを受けるまでは。

小田が原稿にして掲載された私のインタビュー記事には政治的主張は無く、あくまで理解しづらい放射性廃棄物処理の技術的な面の解説が中心だった。
それでも、ひとつの物事に抱かれるイメージは多様のようで、世の中には我々の想像を超えて、怒りや憎しみを行動のエネルギーにしている人間がいる。

有名ジャーナリストの記事はビジビリティが高い。
間接的であれ、私が語ったことは結果的には反原発派を擁護する内容になったこと、小さな写真で掲載された私がたまたまアカデミアでは未だマイノリティである女性であったことなど、理由はいろいろあるのだろう。
理由が何であれ、放射性廃棄物埋設処理の案件をきっかけに私個人を攻撃対象にしたいと望んだ者がいるということ。

私への殺人予告が威力業務妨害に当たると判断した大学は警察に通報し、校内の警備員を増員し私の通勤には当面民間警備会社の護衛を付けることを決めた。

往々にして、この手のものが悪戯の類である場合が多いことは承知していた。しかし、自分の問題にとどまらず、大学を巻き込んでしまった結果には頭を抱えた。
個人名や顔写真が出る形でのインタビューを受けることを承諾したのは私自身だ。
世の中の人間すべてがまともとはいえない、というリスクを見落としていた自分の自業自得だ。

その夜、小田からの連絡があった。
小田のもとにも同様の脅迫メールが届き、警察の捜査関係者によるとおそらく大学宛に届いた脅迫メールとも差出人は同じであるとのことだった。

マスコミで働くジャーナリストである小田にとっては、リリースした内容に対する歪んだレスポンスは仕事上の日常茶飯事だが、取材対象である私に及んだことに少なからず動揺していた。
「大変申し訳ありません。記事の内容には100%自信を持っていますが、結果的に貴方の身を危険に晒す事になってしまった。」
「小田さんが謝られることではありません。狙いをつける獲物を探していた猟奇的な人に偶然見つかったというだけのこと。事故のようなものだと思っています。」
「しかし、事実あなたやあなたの職場にご迷惑が及んだことを申し訳なく思う。何よりも貴方の身の安全を案じています。もしも今ご自宅でおひとりでいらっしゃるのがご不安ならば、こちらでセーフティーハウスを用意することもできますから、暫くセキュリティ―が整った安全なところに移りませんか。警察が犯人を特定するまでにはそれほど時間はかからないと思います。」
「こちらは、大丈夫です。避難には、及ばないと思うのですが。」
「私はこういう仕事をしていますので、取材対象者の方の保護も珍しい事ではありません。お仕事に差し支えなければ、国内でも国外でも安全な場所を用意できます。」
「小田さんは、このようなことには、これまでも。」
「このくらいは。そうですね、よくあることです。私には問題ではありません。出版社が対応もしてくれています。けれども、貴方は違う。」
受話器の向こうの溜息を聞いた気がした。
「小田さん、私だって、今、小田さんを案じています。」

溜まっていた有給休暇を含めて大学には2週間の休暇届を出した。
大学としても、できれば学生のいる学内で万が一のことがあっては、とすぐに私の休暇願は承認された。

休暇中のある午後、小田からの電話を受けた。
「大学はお休みを取られたのですね。」
「はい。有休も消化しなくてはならなかったし。急でしたので、まだ何も計画がないのですが。」
その時、私は久しぶりのゆっくりとした午後、沸かした熱湯で紅茶を淹れていた。
しかし、小田はやや焦った口調で言った。
「それでは、東京を暫く離れられませんか。」

「すぐに荷物をまとめられますか?」
「今から、ですか。何処へ、行くのでしょう。」
「人も少ない静かで安全な場所があります。ご案内します。」

現実味がなかった。
地震や大雨といった災害時の避難すら、これまで経験したことはない。
何のために、私はここ東京を離れ、一体何から逃げるというのだろう。
そして、小田は私を何処へ連れて行こうというのだろう。

疑念を抱きつつ、それでも、私は無意識にクローゼットを開けて、旅行用のトートバッグを取り出していた。
何処へ向かうのかも知らされてはいない以上、必要なものがすぐに思いつかない。
大抵のものは行き先が分かった時点で、空港や現地で調達ができるだろう。

普段の持ち歩くものが入った小さなハンドバッグのほかには
シルクカシミアのポンチョ、サンダル、そして、サングラスとパフュームオイル。
まるで小旅行にでも行くかの様だった。

夕方には小田の運転するアウディがマンションのエントランスに止まっていた。
さほどない荷物を積み、助手席のドアを開けて小田が言った。
「行きましょう。」
「それで、どちらへ、向かうのですか。」

何処へ向かうのかも知らされずに出発する。
奇妙なことに、不安は感じられなかった。
車内も、小田の使っている香りがする。
その温かみを吸い込んでいた。
行き先も知らされずに、初めての車の助手席に身体を沈め、これから何が起こるのか何処へ向かうのか期待と興奮に包まれる。

夜の首都高速の灯りが窓を流れていく。
カーステレオからは場違いにも思えるドビュッシーの旋律。

戦火の中東での駐在員でもあった百戦錬磨の小田が、今のこの状況に何を見て、何を考えているのか、私には図り知れない。

ジーンズにネイビーのTシャツ姿の小田がハンドルを切る度に、その腕からは複雑なノートが薫る。
その腕に自分を委ねている、たとえ、この判断が誤っていようとも、構わない気がした。

夜の羽田空港はラッシュアワーを過ぎ、残りの国際線と国内線の便は多くはない。幾つかのショップは閉店に取り掛かっている。
国内便の最終、鹿児島港行の表示。
小田はANAのカウンターでチケットを2枚購入しチェックインを済ませた。

「鹿児島ですか?」
「旅行にでも行くと思っていてください。先生を宿までお送りしたら私はすぐに東京に戻ります。」
「それでは小田さんが大変では。」
「いいんです。」
「私一人では向かえない場所なのですか?」
「そうです。」

このエスケープを小田はどこか楽しんでいるかのような気すらしていた。

小田は用意されていたレンタカーを運転し、深夜の鹿児島空港から星空の見える道を20分ほど走った。
微かに温泉の香りがする場所に降り立つと、石畳の敷かれた先に小さな灯篭に古民家が浮かび上がる。
「こちらの宿に暫く逗留されるといいでしょう。私は今月いっぱい借りているのでご自由に。」
小田は自分で鍵を開けて私を招き入れた。

そこは、たしかに宿のようではあるが一軒一軒が玄関を有する離れのようでフロントも別の場所のようで、人にも会わない。
「私は明日の朝東京に戻りますが、どうぞ好きなだけいて下さい。朝になれば、宿の案内の者が来ます。それから、なにか必要なことがあれば何でもコンシェルジュに電話をして下さい。」
秋草が活けられた白磁の壷。整えられた調度品。
旅の宿というよりも、誰かが暮らす家に上がるようだった。

「実は、此処はかつて私の実家でした。両親が亡くなってからは暫く空き家だったのですが、取り壊してしまうのが忍びなかったので、部分的にリノベーションしてこうやって宿泊施設にしているんです。家具もほとんど昔のままです。」
小田は、慈しむようにテーブルの縁に触れた。

「息抜きのために自分でここを借りているので、別荘のようなものです。会員限定ですが、オープンな宿として活用することで、使っていない時には常に手入れしてもらえるし、この上の山にも他にも数棟、同じようなつくりの家があります。」

部屋の躯体は古民家のものだが、トルコ絨毯が敷かれたリビングにはピアノや大型本が並ぶ書棚もある。
部屋の角ではイサムノグチの照明が点る。
「素敵なところですね」
美しい部屋の中で溜息とともに呟くことしかできなかった。
「ありがとうございます。気に入ってくれたらうれしい。どうしても、あなたにここに来てほしかった。」
疲れているであろう、小田を案じた。
その表情がどこか、影を帯びていたから。
「それでは、私は別棟で休みますのでどうか暫くくつろいでいて下さい。」
そう言って彼は玄関を出ていった。

翌朝、内湯の半露天の岩風呂温泉に浸かっていると、現実ではない世界に迷い込んでいるように思えた。
時間が分からない。ここでは東京と違う時の流れがある。
小田はもう、東京へ発ってしまったのだろうか。
彼の姿は、その朝既に無かった。

山の斜面のススキが揺れる。
植栽の秋明菊の白い花。

朝陽の中で改めてかつて小田の実家だったというその宿の中を見回すと、小田が何故私の傘に目を止めたのかが分かる気がした。
テーブルも椅子も、長く大切に使われてきたものだけに宿る美しさがある。
そう言ったものがごく自然に配されていた。

その空間の中ではテレビもラジオも音楽も、読書のための本すら不要だった。
屋外では鶏が自由に歩き回り小さな菜園の土を啄んでいた。
私は、長椅子に横たわり窓からの風を感じていた。

このようなところで育った小田は、自ら好んで戦地へも赴き、東京では拗れた社会問題に切り込み、社会に問いを投げかけ、一体何をしようとしているのか。
この宿の中にみる彼の美意識に触れ、その一端を僅かに理解できそうな気がしていた。
何か、美しいものを、この世の中に見たいと願う者の苦悩は尽きないことだろう。
次に会う時には、小田と言う人物の私の中での在り様は、変わっているかもしれない。

3泊目の朝の事だった。
テレビの無い部屋にいたが、ようやく新聞に目を通す気になった。
小さなニュース記事だった。

「犯人逮捕」

そこに見た小さな写真が小田の顔でなかったならその記事を読むことも無かっただろう。
“4日前の未明、ジャーナリスト小田英二さん(51)が殺害された。 一週間前に脅迫状を送り付けるなど、警視庁は脅迫行為を行っていた無職の男を逮捕した。小田氏の投稿記事に不満があったという。”
事件の期日を見ると、4日前だ。
4日前?
小田はその日の夜、私とここに来たのだ。
到着したのは既に日付が変わる時刻だった。

何かの間違いでは。
小田に電話をかけ、電源が切られているとアナウンスの音声を聞く。それを何十回も繰り返した。

私は彼に次に会う日のことを考えていた。
同時に、二度と彼はこの宿を訪れることがないということを考えた。
そして、現実を失った。


小田が暮らしていたという、美しい古民家。
彼が大事にしていたものだけがここに残されている。


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