余白について考えてみた
金曜日の夜です。
こんばんは、おはようございます。こんにちは。
こういうとき「Hi!」って便利だなぁ。
今日は「余白」について考えてみた。
このノートの最後に、書いたんです。
余白を持つと。
さてその余白とは。それでは参りましょう。
あまりのしろいの
すきま、とか無駄なようで無駄でない、とかそういう雰囲気を持っているなと思うんですよ。必要なもの。なくてはならないもの。空間。
写真でもデザインでもそうだと思うんですけど、その「余白」があることでグッと印象に残ったり、センスがよく良く見えたりすることあるじゃないですか。かといって余白ばかりあればいいってものでもない。
一面埋め尽くされているものも、パワフルで命を感じたりする。勢いとかエネルギッシュとか。一色なのか多色なのかでも、印象変わりますしね。
構図とかで考え尽くされた余白よりも、「なんとなくこれがいいと思って」の余白が好きです。黄金比とかあるんだろうけど、なんかしっくりこない。
多分その考え尽くされて「あなたたちこれがきれいとおもうでしょ?ホラホラ!」みたいな、そんな雰囲気。その正解に乗らないはずないでしょみたいな。
直感で生きているわたしは、そのいやらしさが鼻につく。
でも黄金比で作る肉じゃがとかは美味しい。ほんとに。
足すよりも引く難しさ
服飾の専門学生の時、マイナスをすることが難しいと思ったことがある。
どんどん足して、あれもこれもとキャンディバックみたいに詰め込んで出来上がった作品は、一体なんのコンセプトのもと作られたのかわからなくなりがち。
やりたいことを詰め込みすぎて、首絞めることにもなったりする。
プリーツの切り替え入れて、脇は穴開けて、アシンメトリーな感じのジャケットに、パンツは巻きスカートもつけられるようにして、ベルトも、憲章もポケットもフラップも・・・みたいな。
足していくのは簡単なんだよな。物足りなさを解消できるから。
でも、その物足りなさをいかに美しさに変えていくのかって言うのがデザインなんじゃないかって思って、どシンプルな服を作り続けていた時もある。
シンプルなんだけど、流れが美しいとか、素材がよいとか。
シンプルな中の美しさって上品でいいよね。勝手にいい匂いしそう。
剥がれ落ちていくもの
とはいえ、そのシンプルになっていく中で、ものすごいごちゃごちゃしててっていう、その工程も好き。結局ごちゃごちゃが好き?散らかったものが洗練されていく様って、すごい苦悩があるってことをしっているからなのか。
剥がしていったものを本当に剥がしてよかったのか、そのまま持つことはできなかったのか。
誰かの歌の歌詞で「手に入れたいものがあるから、大事なものを一つ落としてきた」みたいなニュアンスの歌詞があって。
いつもどんな時でもいいと思ったものを手に入れられるようには出来ていない。それだけ大事にしたいものがあるって言うのは素敵なことなのだけど、どこかから来る「ほしいもの」に対して掴みにいける体制は常に整えておく必要があるっておもう。
大事にしたいもの、忘れたいけど忘れないで掴んでおきたいもの。
わたしの大事な友達にいわれたことば「感謝して手放す」。
噛み砕いて自分のものにしていくことが重要で。捨てるわけではなくて、自分の経験、血と肉にしていく。そうすることで自分の経験は自信になって、新しい何かを掴める余白も生まれる。
余白があると掴めるものも、入ってくるものにも気が付きやすくなるんじゃないかって気がしている。
心がなくなるまで忙しくしている人に、新しい風はかんじることができないかもしれない。
そう思いながら、少しでも余白を持てるように、日々小さな感謝はしてけたらいいなっておもう。