一歩踏み出し自立する
よく晴れた土曜日です。
おはようございます。
お休みの日こそ早起きの子どもたち。平日にもその力を発揮していただきたい。
さて私はこの夏に新たな一歩を踏み出したわけです。結婚を卒業する、いわゆる卒コンしました。理由はいろいろあるのですが、それは..読みたい人いるかな。
そんな私、ピンときました。
それでは参りましょう。
たのしいがうれしい
なんかの歌詞みたいですが、これ本質じゃない?って思う。
こどもたちが楽しそうにしてると嬉しいし、友達が楽しい姿は嬉しいしこっちも楽しい。
よく育児で、親が楽しくしていないと子どもも楽しくないです、みたいなのよく見ますけどホントそう。イライラしてたら子どもにも伝わっちゃうし。空気読む子になっちゃうなってすっごい思う(思い当たる節がある...)
子どものこと1番に考えていることはもちろん責任もあるし、とってもいいこと。命育んでるわけだから。
なんだけど、それをやれている自分を褒めまくってあげることもすっごい大事。「え、自分こども育ててるじゃん!すごい!」って。だから、たまにはでいいから(まぁ欲を言えば1週間に1度くらい)は自分だけですごく時間欲しいよね。美容院行ったり出掛けたり友達と会ったり。気負いなく。
そうすることでリフレッシュして、楽しい気持ちで家族に向き合える。楽しいは連鎖して家族の時間も幸せなものになる、って思うんですよね。
ストレスフリーな環境
日々生きてく中で全くストレスがない状態っていうのは難しいけど、その状況に向かう努力や行動はできる、と思ってます。
我慢しない、溜め込まない。
言わないが美徳、っていうのはほんと良くない。不満や不平はきちんと伝えた方がモテると思う。伝え方にもよるよ、もちろん。
でもだって、たられば、って言い続けてたらそりゃ相手にされないので。
特にパートナーシップに関しては、お互いがお互いをきちんと尊敬して平等であることが大事で、我慢なんて心の負荷でしかないわけで。
それが物質的なものなのか、感覚的なものなのか。感覚的なものであれば擦り合わせの話し合いが必須だし、物質的なものであれば話し合いと改善策を出すことが必要。
それが出来ない相手とは、もはややり合う価値すらなく、時間の無駄なので、そこに愛があっても自分の信念や思いをまもるためには、ある程度覚悟決めて向き合った方がいいと思う。大体そこには相手の本質を見抜くチャンスが隠れている場合があるから。
私のこと愛してないの?(なんでわかってくれないの?)は、ただの自己愛でしかないよね。主人公は自分なんだけど、世界が自分のために回っているわけじゃない。気付いてくださーい、世界から見たらみんな米粒ですよー。
米粒のストレスなんて世界から見たら粒子です。粒子レベルのことでとやかく言いかかってくる相手に、時間食われてる暇あったらさっさと自分のために時間使った方がいいです。
さて、そういった人とどうするかもうわかりますね。離れるが1番です。フェードアウト。
静かに消えるのかパッとバッサリ行くのか、そこは自分で決めましょう。相手は関係ないのです。
類は友を呼ぶ
こういう言葉ってほんとすごいなって思うんですけど、そうやって自分で決断して決めていくとどんどん見えてくる世界も変わって、出会う人も変わってくる。必然だと言わんばかりに出会いたい人と出会える。
関係を築くって、自分を築いていくようでもあると思うんですよね。感化されたり刺激したりされたり。そうやって自分がどんどん階段を登れる環境って自分で掴んでいくものだと思うのです。
誰かのせいにして生きるのは本当にもったいない。世界は思っているよりも狭くて広い。一つ出口が見えたらその先の出口はもっとちがうものなので、迷ったり傷ついたりしていても、どうにかこうにか踏み出して欲しいと思います。
私も時々、足踏み踏んで、同じ場所ぐるぐるしてるけど、そういう時こそ進める時なので大丈夫。そこには友達も家族もいます。
私のことを傷つける人はそこにはいない。自分で決断して進んだ先には、きちんとそれに見合った環境が待っているはずです。