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答えを知りたいのはなぜ?|『モモ』の目で観る哲学の話#3
せめて自分が、自分の手が届くくらいの人に、世界をよく見る機会を届けていけたらいいなと思う。ミヒャエル・エンデ『モモ』のなかで、小さな女の子「モモ」が円形劇場で町の人の話をじっと耳を澄まして聴いていた。そのくらいの規模感で。そして、それはきっとむつかしい話じゃなくもっと日々に近いことのような気もしている。
ー『モモ』の目で観る哲学の話#1 より
ただただ歩いているといつの間にか通り過ぎてしまう。私たちは見ているようで見ていない。知っているようで、実は知らない。世界をよく見るために。自分で考えて生きるために。手がかりのひとつは「てつがく」のなかにあるのではないか。
これは、私が個人的な探求としてマイペースに行う、哲学的な対話をめぐるフィールドワーク的な試みとその記録。「てつがく」する現場に足を運び、参加をし、画面を覗き、潜り込んで、場を作る。本も読む。
「答え合わせはどうしても必要ですか?」
大きなテーブルの上にならぶ、白い手の数々。もちろん本物の手ではなく、捏ねて作った手の模型。多種多様な手が20以上もならび、その手の前に人が佇み首をかしげる光景は、冷静に見るとまあまあ異様である。
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東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)上廣共生哲学講座が主催する、<哲学 x デザイン>プロジェクト41『みえないあなたみえるじぶん』に参加した。
ゲストはアーティストの鈴木康広さん。ホストはUTCPのライラ・カセムさんと哲学者の梶谷真司さんだった。
冒頭の言葉は、鈴木さんが会の終盤で放った言葉だ。
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参加しようと思った理由はふたつある。ひとつは<哲学 x デザイン>という組み合わせでどんな化学反応が起こるのかを見てみたかったから。もうひとつは、『みえないあなたみえるじぶん』というタイトルと、なにをするのかよくわからない募集要項(以下)に惹かれたから。
互いに同じ時間を過ごすことで、何かがみえてきたり、みえなくなったり。
ちょっと違った角度やフィルターを通してものやひとをみると、どう見え方がかわるんだろう?
瀬戸内海や隅田川を開いた「ファスナーの船」をはじめ、「まばたきの葉」や「空気の人」で知られるアーティストの鈴木康広さんをお迎えして、アートの「創造する」と、哲学の「想像する」こと掛け合わせ、「創像(そうぞう)」するワークショップをUTCPと共に開催します。
鈴木さんの作品はもちろん、自ら作品の一部となりその場所・時間にしかできない対話を体験をしてみましょう。
パルメザンチーズを捏ねて捏ねて捏ねて
会場は東京大学駒場キャンパスの天井の高い綺麗な建物。イベントスペースとして使われている模様。
靴を脱ぎ、誘導されるがままに室内に入ると、なにやら会場は大きな塗装用の養生シートで二つに仕切られている。隣のスペースにも同じく参加者がいるようだ。銭湯の女子風呂に男子風呂の話し声がもわもわと聞こえてくるみたいに、響き渡りながらとなりの参加者の声がする。
こちらのスペースには大テーブルが二つ。椅子はそれぞれ8脚くらいずつあっただろうか。手前におじさんがひとりで座っている方のテーブルに着席する。
次々と現れる参加者たち。年齢は本当にさまざま。あとからわかったことだが、最少年齢は6歳から、引退後のおじいさんみたいな人まで幅広い年代の人が参加していた。隣の人にはじめましてと声をかけようかかけまいか。なんとも言えぬ緊張感を味わいながらスタートを待つ。
時間になると、二階のギャラリー席的なところからひょっこり顔が出る。鈴木さんとホストの皆さんだった。どうやら空間が二つに仕切られているので上から両方見渡せるように上から案内をするようだった。カメラを構えるたのしげな雰囲気を醸し出す人が、鈴木さんだということがわかった。たのしげだけど、ふざけていない。常に真剣に楽しんでいることがわかるような感じのひと。
席は埋まり、会は始まった。テーブルの上に、紙コップと無添加の粉洗剤が配られる。ほぼ無臭。ちょっと湿気の混じった砂的なサラサラ感。隣の少年がパルメザンチーズと表現していてうまいと思った。
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すごく簡単に流れを説明する。
粉石鹸を触りまくる
(飽きたら)水を足し、捏ねまくる
捏ねて捏ねて捏ねまくる
水と石鹸のバランスが重要
捏ねまくるとだんだんまとまってくる
隣の少年曰く、パルメザンからモッツアレラくらいにしたいと(たしかに)
綺麗な丸をつくる
粘土みたいに遊びまくる人もいる
最終的に綺麗な球体にする
丸まったら、席を移動する
養生シートに向かいこっち側とあっち側に椅子がある
自分に割り振られた番号の席に座る
シートの向こう側に座る人のシルエットがぼんやり見える
球体になった石鹸を使って、ぼやけて映る目の前の人の手を作る
いろいろ質問して、相手の手の形に近づけていく
君は何歳?手にシワはある?指の太さは?手の厚みは?爪のかたちは?
完成するまで前の人には手の様子を見せられないようにする
もちろん自分の手も見せない
完成した手はスタッフが並べ替えてくれる。その間は外に出て待つ
会場の養生シートは剥がされていた
ひとつの大きな空間に大テーブル二つ
そのうえにランダムに並べられた手
それらをぐるぐるまわって見る
自分の手はどれかを探す
これだ!という手の前の席に座る
ぼんやり見えて、声だけ聞こえる見知らぬ相手に質問をして、手を作る。これがおそらくワークショップのメインコンテンツ。わかるようでわからない。言葉だけでは「わかりきること」は難しいのだろうか。
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最後に、大テーブルに並ぶ手のなかから、どれが自分の手を模した手なのかを探す。なんの話をしたのかを思い返しながら、そして自分の手と見比べながら探す。
わたしの場合、相手側は11歳の男の子だった。よく喋る。どうやら最後にしっぱいしたらしく、とにかくまるめるしかないと焦っている様子が、シートの向こう側から聞こえてきていた。
大テーブルを見渡すと、白丸の物体を見つけた。まるでドラえもんの手のような。きっとこれだなと思い、ささっとその丸の前に座った。幸か不幸かどれだかわからないと彷徨う感覚は得られなかった。
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答え合わせをちゃんとしない試みのなかで
特に印象的だったこと。
・話をした内容をもとに、結構ロジカルに探している人が多いなと思った。
・自分の手をほかのものに言い換えて説明しているシャウエッセンみたいな指の太さ、とか。
・感覚的にこれが好きだからこれが自分の手という決め方は人は腑に落ちないらしい。
・なんとかして自分の手として作られたものを探したい。答えを見つけたい。答えが見つからないままだと気になる、不安。
11歳の少年は、わたしが作った彼の手には目もくれず、すごくかっこいい綺麗に作られた手を「これがぼくのだ!」と選んでいた。
これが好き!これがかっこいい!その感覚を基準に選んでいる11歳の少年の姿をみて、そのまま進んでいってほしいと願ってしまった。
と同時に、わたしがつくった彼の手は、彼が選んだスタイリッシュな手とは程遠い、のぺっとした不器用な感じの手。ごめんよ。予想外だったのは、想像していたより11歳の手は大きかったってこと。
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鈴木さんは最後まで「答え合わせ」をしようとはしなかった。好きなものが自分の手だと思ったらいいじゃん。似てると思ったらそれが答えだよ。正解を探すばかりが重要じゃないんだよと、あいまいであることを受け入れる姿勢を、鈴木さんは貫いているように思えた。
答えを知りたい。答えを合わせたい。この感覚ってどこから生まれるのだろう。知りたいという純粋な欲求と、正しくいたいという欲望。
正直どの手が自分の手であろうがなかろうが、どっちでもいいはず。それでも答えを知りたい。自分のなかにもその感覚があることに気がついた。
帰り道、間違っていたらよくないことってどのくらいあるかなと思い返す。社会に出たら、答えが一つなことばかりではない。たとえ答えが一つだったとしても、その答えにたどり着くまでの道はたくさんある。
余談
子どもは子どもらしかった。子どもらしいとはなんだ?とも思うけれど。無邪気でまっすぐ。世界の中心に自分がいるように見えた。眩しい。
まる〜い世界を想像したときに、自分が中心にいる感覚はいまの私にはない。(自分の)世界の中心から、自分がずれていくのはいつからなのだろう。もちろんすべての人が「自分が世界の中心である」と思い続けていたら、社会は成り立たない。
子どもも大人も同じようにワークショップに同じように参加するのっていいなと思った。他者との違いを味わうこと。違いがあればあるほどに、それは自分の思考を深めるきっかけになってくれるのだと思う。