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違和感への引力を高めていくこと|『モモ』の目で観る哲学の話#1

「哲学対話は最後にまとめません。時間が来たらそのままそこで終わります」

もやもやが残って、それでいい。他人の意見を使い自分が深く考える。水の中に深く潜るような思考の時間がだれにでも与えられているのが哲学対話だと、ファシリテーターの哲学者 永井玲衣さんは言う。去年読んだ、永井さんの著書『水中の哲学者たち』を思い出した。

Featured Projectsの哲学対話の時間「明日をひらくものづくり」に参加をした。会場には100人ほど参加者がいただろうか。想像以上に人が集まっていることにまずは驚いた。哲学対話に人が集うその場に希望を覚えながら、深い思考の時間を過ごした。

面白いと思ったこと、興味がそそられたものがあるので羅列する。

・視聴者が多数いる中の、哲学対話も成り立つ。
・円形劇場のような空間。『モモ』を思い出す。
・ボール(ぬいぐるみ)がまわる。
・登壇者5名だけが盛り上がるのではない場づくり。
・デジタルを活用した視聴者側の参加。
・システムの使い心地、シンプルで迷いがない点よかった。
・あだ名。呼ばれたい名。偉い人が偉くなくなる。武器をおろした茶室みたい。
・匿名性の高さ。自分が認識されないことで、主体的に参加してみてもいいかなと思える感覚。
・実際に視聴者からも主体的に意見が出されていた。
・哲学対話の前提・ルールのはなし。そのルールがあるからこそ安心な場がある。
・たとえば最後に話をまとめないとか、黙り込んでもよしとか。ふだんは許されないようなことが許されるという特別感。
・意見を言った人、あるいは自分の価値を、発言内容から見定めるような場ではなく、だれかの発言により宙に浮いたコメントが重なりあい、深まり、熟成されていく。
・問いを最初に設定すること。自分たちで。最後にわたしたちは「何が話したかったのか」、また問いの地点に戻ってきた感じがしたこと。
・もう少し話したかったなという名残惜しい感覚で終了。
・突然終わる、それでよしというスタンス。
・ファシリテーターとは、まとめ役ではない。ファシリテーションという語源に立ち返った感覚。

「面白かった」とひとことで言ってしまうとそれは簡単にまとめすぎていて、少し違うようにも思う。なので、どんな点がどう面白いと思ったのか。どんな風に感じたのか。感想も混じってしまっているが、今後のためにまずはここに記録(メモ↑)を残す。

会場は問いで満ちていた。浮かばなかった問いが時とともに浮かび上がってくるような、湧き上がってくるような感覚。

どうして明日に向かわなければいけないの?
あたらしさや未来は大事?
なぜひとは成長したいと思うのだろう。
ものづくりとデザインの違いって?
どうしてひとはものづくりをしたいのだろう。
デザインは課題解決なのか?
課題解決すればそれでいいのだろうか。
その言葉に感じる違和感はなにか。
あたらしい靴下を身につけたいと思うのは未来にむかっている?
ものをつくるとなにがひらけていく?
喜んでもらうことは大事?うれしい?
この時間になにがかくれている?

キラキラした目の子どもたちが「なんで?」と声を上げているようなそんな感覚が哲学対話にはある。どれもなにも解決していない、そんな場を心地よく思った。

会場は渋谷のコクヨオフィス・THE CAMPUS

答えの出ていないもやもや感と、ぐるぐるぶくぶくと発酵中のあたまを携えて会場を出る。

品川駅の入り口から改札口までの数十メートルの無機質な通路には、等間隔でデジタル広告の画面が吊り下がる。

切り替わる広告に連なる文字は
「明日に向かって、あたらしい〜〜」「課題解決には~~~!」。
さわやかな写真とスタイリッシュな絵が、キャッチフレーズの言葉とともに切り替わる。

隣を歩く若いふたりが「あ」と声をあげる。
「ねえみて、課題解決だって」
「あ、未来をつくろうって。そんなに未来ばかりをみなきゃいけないのかな」

きっと同じ会場にいた人たちだ。わたしもまったく同じ言葉に違和感を感じたから。となりを歩く他人に、急に親近感が湧く。

普段なら目にも止めなかった言葉に、わたしは、わたしたちは、違和感を覚えたこと。
ひとりだけでなく、ふたり以上の人間の思考に「違和感」という「立ち止まる時間」をもたらすこと。
その場が終わっても、引き寄せたもやもや感はしばらく続くこと。思考が巡り続けていること。
そのことについて、誰かともっと話したいな、考えたいなと思うこと。

ぼーっと生きていると、あまりにもさらりと過ぎ去る日常。ああ、自分のあたまで考える人を増やすために、哲学対話は役に立つだろうなと思った。違和感を感じられる自分を引き寄せる行い。ささやかな努力。そのひとつがわたしにとっての哲学対話なのかもしれない。

デジタル化が進む現代。聞けば答えてくれるのは当たり前、さらに人間の代わりに思考物を生み出してくれるAI。それらをいい未来に向かってうまく活用していきたいと思うけれど、それによって思考力が失われた人がうごめく未来が明るくないことは想像に難くない。

だれかの言いなりや便利に流されるだけでなく、自分の意見を持ち、違和感に気が付けること。上下関係を横におき、おかしいことにおかしいと言えること。それはとても大事なことだと思っている。

とりわけわたしは人が思考力を失うことへの危機感があるのだと再認識した。でもそれを止めるだなんてそんな大それたことができるなんて思っていない。

せめて自分に、自分の手が届くくらいの人に、世界をよく見る機会を届けていけたらいいなと思う。ミヒャエル・エンデ『モモ』のなかで、小さな女の子「モモ」が円形劇場で町の人の話をじっと耳を澄まして聴いていた。そのくらいの規模感で。そして、それはきっとむつかしい話じゃなくもっと日々に近いことのような気もしている。

こんな風につらつらと思う原体験がある。そのおはなしはまだどこかで。


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