違和感への引力を高めていくこと|『モモ』の目で観る哲学の話#1
「哲学対話は最後にまとめません。時間が来たらそのままそこで終わります」
もやもやが残って、それでいい。他人の意見を使い自分が深く考える。水の中に深く潜るような思考の時間がだれにでも与えられているのが哲学対話だと、ファシリテーターの哲学者 永井玲衣さんは言う。去年読んだ、永井さんの著書『水中の哲学者たち』を思い出した。
Featured Projectsの哲学対話の時間「明日をひらくものづくり」に参加をした。会場には100人ほど参加者がいただろうか。想像以上に人が集まっていることにまずは驚いた。哲学対話に人が集うその場に希望を覚えながら、深い思考の時間を過ごした。
面白いと思ったこと、興味がそそられたものがあるので羅列する。
「面白かった」とひとことで言ってしまうとそれは簡単にまとめすぎていて、少し違うようにも思う。なので、どんな点がどう面白いと思ったのか。どんな風に感じたのか。感想も混じってしまっているが、今後のためにまずはここに記録(メモ↑)を残す。
会場は問いで満ちていた。浮かばなかった問いが時とともに浮かび上がってくるような、湧き上がってくるような感覚。
キラキラした目の子どもたちが「なんで?」と声を上げているようなそんな感覚が哲学対話にはある。どれもなにも解決していない、そんな場を心地よく思った。
答えの出ていないもやもや感と、ぐるぐるぶくぶくと発酵中のあたまを携えて会場を出る。
品川駅の入り口から改札口までの数十メートルの無機質な通路には、等間隔でデジタル広告の画面が吊り下がる。
切り替わる広告に連なる文字は
「明日に向かって、あたらしい〜〜」「課題解決には~~~!」。
さわやかな写真とスタイリッシュな絵が、キャッチフレーズの言葉とともに切り替わる。
隣を歩く若いふたりが「あ」と声をあげる。
「ねえみて、課題解決だって」
「あ、未来をつくろうって。そんなに未来ばかりをみなきゃいけないのかな」
きっと同じ会場にいた人たちだ。わたしもまったく同じ言葉に違和感を感じたから。となりを歩く他人に、急に親近感が湧く。
普段なら目にも止めなかった言葉に、わたしは、わたしたちは、違和感を覚えたこと。
ひとりだけでなく、ふたり以上の人間の思考に「違和感」という「立ち止まる時間」をもたらすこと。
その場が終わっても、引き寄せたもやもや感はしばらく続くこと。思考が巡り続けていること。
そのことについて、誰かともっと話したいな、考えたいなと思うこと。
ぼーっと生きていると、あまりにもさらりと過ぎ去る日常。ああ、自分のあたまで考える人を増やすために、哲学対話は役に立つだろうなと思った。違和感を感じられる自分を引き寄せる行い。ささやかな努力。そのひとつがわたしにとっての哲学対話なのかもしれない。
デジタル化が進む現代。聞けば答えてくれるのは当たり前、さらに人間の代わりに思考物を生み出してくれるAI。それらをいい未来に向かってうまく活用していきたいと思うけれど、それによって思考力が失われた人がうごめく未来が明るくないことは想像に難くない。
だれかの言いなりや便利に流されるだけでなく、自分の意見を持ち、違和感に気が付けること。上下関係を横におき、おかしいことにおかしいと言えること。それはとても大事なことだと思っている。
とりわけわたしは人が思考力を失うことへの危機感があるのだと再認識した。でもそれを止めるだなんてそんな大それたことができるなんて思っていない。
せめて自分に、自分の手が届くくらいの人に、世界をよく見る機会を届けていけたらいいなと思う。ミヒャエル・エンデ『モモ』のなかで、小さな女の子「モモ」が円形劇場で町の人の話をじっと耳を澄まして聴いていた。そのくらいの規模感で。そして、それはきっとむつかしい話じゃなくもっと日々に近いことのような気もしている。
こんな風につらつらと思う原体験がある。そのおはなしはまだどこかで。