問題児生徒 vs 私! 心を動かせた・・・? ー教育現場⑨ー
こんにちは😀
今回は新卒で働いた偏差値の低い高校での出来事についてです。
ある1人の問題児がいました。
入学して間もない頃、みんなフレッシュで、校則にもしっかり従って、態度の悪い生徒はまだ見ない時期でした。ただ1人を除いて。
その生徒は、入学して最初のテストをずっと居眠り。解答も名前も書かず、そのまま提出。
当時テスト監督で彼のいる教室に行った時は、唖然としました。「こんな奴もおるんか・・・」と。
学校生活も居眠り、授業も居眠り。病気とかではなく、しんどいとかではなく、ただの不真面目。学校がだるいっと言うのが彼の口癖。
担任もホトホトも困っており、周りにも悪影響が出始めた。
学年は「こいつのせいで全てが壊される」という危機感を感じていました。
そんな彼の態度について担任と相談したところ、彼には「何も関心がない」ということでした。
確かに、学校を嫌がり、真面目な生徒とは絡まず、むしろ邪魔をしていることすらわかっておらず、自分のことにおいても全く無関心であり、とにかく学年の先生全員は彼とは真正面から挑まず、「退学」するのを待っていたほどでした。
そして1学期の成績は当然の欠点。全教科でした。
夏休みに追試を受けさせることになり、「英会話」の追試補習の担当を任されました。しかも1対1の。
「運悪・・・」っと絶望しながら、彼のいる教室に向かった。そして英会話の補習をしようとした時、彼は言いました。
「先生、俺、何もする気ないから。時間の無駄やから帰らせてくれ。」と。
「ここで帰してしまったら、担任どころ主任に俺が殺される」と思いましたが、ふと疑問に思ったことを聞きました。
「じゃあ、なんで来たん?」と。決して口調や語気を強めることなく、冷静に話をしようと思いました。
すると彼は当然のように「お前らが来いっていうからやろ。」
まあそうである。「でもバックれることだって出来たのに、ここに来たということは何かに期待して来たんじゃないの?」と言いました。
彼は黙りました。
そして気になったことをもう一つ聞きました。
「君ってほんまに無関心なんか?」
普通の人間は仕事はしたくなくても、何か好きなものはあるはずでは?と思い聞きました。
「・・・特に好きなことはない。」
「本当に?何かなりたい職業とかあるかい?」
「・・・特にない。」
「でも今日の髪型セットしてきているやん?ほんまは校則としてあかんことやけど、君が無関心なのは少し違うんじゃない?」
彼は言いました。
「髪の毛をいじるのは好き・・・。」と。
「だったら、いつか美容師になって、俺の髪の毛セットしてくれない?」と冗談半分で言い、「お客さんの髪の毛を君が思う素敵なものにしてみるなんてどうかな?」と。
彼は今までにないくらい本気で考えていたように見えました。
「あ、ごめん後授業10分しかないわ。とりあえず、この問題が追試で出るから少しでも勉強しようか!暗記すれば良いからね。」
すると彼はペンを持って勉強をし始めました。
彼の心を動かせることができたのだ!このことを担任に報告し、追試の日に何か変わってくれることを期待して待っていました。
しかし、彼は変わりませんでした。あの時の目の輝きは間違いなかったと思っていました。「家庭環境か?」「誰かに何か悪いことを言われたのか?」と疑問に思いました。
そしてテストの態度も悪く、追試も途中で放棄。学年主任もカンカンになって怒り説教をしました。
でも彼の態度は全く変わることなく、退学していきました。
私は「怒る」こと「叱る」ことは彼らのような生徒には無意味だと思いました。
根性論的な視点で全てを話し、それで生徒が情を感じる教育を受けていたら、こんな学校には来ないだろう、と思っています。
彼の10分間の目の輝きは絶対にまやかしではなく、しっかり向き合って、丁寧に接してあげれば、本当に何か変われていたかもしれません。私はその10分間の目の輝きを潰した人や、彼との向き合い方を考えなかった先生に、怒りを覚えました。
今でも当時の私の力のなさに悔しさを覚えます。変われたかもしれない、味方になってあげられたかもしれない、もしかしたら弟子になっていたかもしれない。
可能性を潰すことが学校のやり方であれば、その学校は存在意義を考え直すべきだと思いました。
「校則が〜!校則が〜!」っという先生も私は嫌いです。それはもちろん校則はあるべきです。でも多少破った程度で強く言うのは違うと思います。
彼らなりの自己表現なんだから、それを否定することは、人生そのものを潰すことを意味すると感じます。
ある夜間学校を経験した先生からこんな話を聞きました。
「その夜間学校では校則が一切ありません。でも次第に校則がないことに生徒が違和感を覚えて校則を自分たちで作った」という事例があったそうです。
生徒も何か違うと思ったら、「行動に移してみよう、そのためには必要な人を動かそう!」としてきます。
でもそれを鼻から挫き、絶対王政の中で管理される教育は、もう終わりを迎えたのではないでしょうか?
もっと自由に、もっと柔軟に、そんな教育観を学校の教師は身につけるべきだと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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