存在しない、感想。20230718
純粋な感覚などもう無いのだろうか。それとも初めから存在しないのだろうか。
例えば、今日の音楽発信はyoutubeによる所が大きい為、音楽も「観る」事で消費されている事が多い。
映像のないただの音の流れをはじめから聞いている人間は比較的少ないように思う。
そもそも音楽(に限らず芸術一般)の鑑賞は個人的な思い出とか心象に大きな影響をうける。
その音楽を聞いて浮かぶイメージはその人の経験だし、それによる感情だ。
だから知らないものは分からないし、分からなければ良し悪しの前に何も浮かばないのだ。
知らないというのは、感情や支持されている物事、どうやって作品に対して自分の感情を投影するのか等々、様々な事をさしている。
「純粋な感覚」というのが大分曖昧なので直しておく。
僕が言いたかったのは「五感のうち1つ(または2つ)に対する直接的なアプローチをする芸術に対し、その他の感覚による補完を受けない鑑賞。延いては感想。」
という事だ。
以上を踏まえると「純粋な感覚」というのはウートピアみたいな物で、問題点はそこには無いと思う。
これまでして来た事、拡大解釈して美しいと感じさせているという事自体は何かを作り表現する者として一つの成功例だと思う。
問題は消費をする側にある。我々は手軽な物ばかり好み、歩み寄らなければ分からない事さえもわかった様な顔をして生きている。
芸術というのはあくまでも人の内側から出た個人的な事だから、本来分かるわけは無い事なのだけれど、彼ら表現者は言語化(絵画や音楽その他も含む)の達人なのでそれを伝わるところまで表現してくれている。
我々はそれに対し、分かるようになるのではなくただ、相槌を打って、理解を示しているよと態度で表示できる事が大切なのだと思う。
真意は作品のなかにしか無いので。
この時に自分の解釈や理解が恰も素晴らしく正しいとするような、甚だしい自己愛は下品で見苦しい。
なので言葉を選びその感覚についてより深く考えましょう。それが一番楽しいので。