商社時代とパニック障害
本日もお疲れ様です。皆様にとって今日はどんな一日でしたでしょうか。
初投稿なんてどなたも見られないと思ってみていたのですが、意外に♡を押して頂いていて非常にうれしいです。有難うございます!
今回は自身の体調や診断された症状について記載しようと思います。
長くなってしまうので、このページでは、前職の時について主に記載しようと思います。(それでも長いです!笑)
簡単に、前職のキャリアを記載すると、2020年に入社し、貿易実務(船積み手配や出荷調整や貿易書類作成等)に2年半従事した後、米国とブラジルの事業投資先管理の部署に半年在籍し2023年6月に卒業しています。
実は、初めてメンタルクリニックにかかったのは2022年のGW中でした。
そして症状を遡ると2021年の12月ごろからスタートしています。
2021年12月、社会人2年目の2/3が終了しようとしている頃です、会社に向かう電車で息苦しい症状が出る、オフィスでの他社員の話し声やオフィスワークでの仕事音がすごく気になって居心地が悪い、人混みでめまいがする等の症状が出始めました。
でも初めてのことで、体調が良い時もあったので、一過性のものだと思いました。まさか自分がメンタルクリニックにかかるような人ではないと思い込んでしまっていたこともあり、受診までに半年かかりました。
GW前の就業中に、また発作のように息苦しくて仕方なくなり倒れそうなくらいには症状が悪化してしまい、上司に相談しその日は帰宅、GW中に病院にかかることになったのです。
これが私と、パニック障害やうつ病との付き合いの始まりでした。
尚、症状の主な原因は業務への過度なプレッシャーと自信喪失からでした。これまでの人生では自身がADHDであることを自覚しておらず、注意力散漫や落ち着きのなさも個性と思って生きてきました(周囲には多大なご迷惑をかけてきたと思います。。。謝) 当時は貿易実務を担う子会社へ出向しており、そこでは一字一句ミスが許されない書類作成や船積みや出荷の手配を行う必要があり、スケジュール管理や細かい事務作業の苦手意識からここで初めて自分がADHDであることを自覚しました。言い訳にせずにカバーすれば良いと、ミスをしないように、そして組織に順応するように、努力をしましたが過度に自分を追い込んでしまいました。それでも徐々に慣れてハードな業務量を熟していくようになるのですが、同期の2~3倍の量を熟して貢献していても注目されるのはミスをした時だけ。比較をされたり自信を失くさせられるようなことを言われることもちらほら。次第に、たまにミスをしてしまう自分を過度に責めるようになり、何をするにも自分はまた失敗すると、自信を持てなくなっていきました。
(※自身のADHDの話はまた別途記載したいと思っていますが、今は私はADHDであることをポジティブに捉えています。)
病院の診断では、典型的なパニック障害。私の意思を尊重し、休職ではなく在宅での対応で様子見るとのことで療養開始しました。その頃は、うつ症状はなかったので、人混みや閉所でのパニック症状がメインでした。1ヵ月の服薬治療で1カ月後には出社も開始できるようには快復しました。
私の良くない所の1つなのですが、続けること、通うことが本当に苦手。ましては症状が緩和している状態でメンタルクリニックに通うことへの抵抗感もあり、そのまま通院はフェードアウトしました。
そこからはパニック発作は落ち着いていたのですが、同年秋に予期せぬ異動を言い渡されてしまい、そこで再発をしました。
元々海外営業へのキャリアステップを見据えての貿易請負子会社への2年半の出向だったのですが、語学力等を理由に、米国とブラジルの子会社を管理している部署への異動を言い渡されました。周囲には花形部署への異動だね等言われましたが、貿易の知見も何も活かされない、希望と違う部署への異動に戸惑いが隠せずも、異動を急かされあっという間に新部署にいくことになりました。
先方は若手を受け入れたことがないベテラン少数精鋭の部署でした。(40代1人(課長クラス)と50代2人(部長と課長クラス)の部署です。笑) 体調がすぐれないと聞いていた方(その方の後任の筈だった)は、私の異動の次の日にブラジルへ出張され、???という状況。部長も他社員も恐らく3年目の若造をどう扱っていいかわからずで永遠に放置、こちらから何かやらせてくださいとお願いしてもメール見ておいてくれたらいいの一言。
一方で飛び交うメールは英語やポルトガル語で難しいテーマばかり、そして財務諸表の分析や子会社の設備投資についてどうするかの議論etc… これは病んでもおかしくないと思います。笑 何とか急いで簿記を取得したり、財務諸表を読めるように沢山本を読んで勉強しましたが、気付いた時にはまた電車がきつい等の症状が出始めていました。この時には少し鬱の様な症状も出ており、この異動は飛ばされたのかな、自分がいなくてもいいのかなと、消えたいという思いもちらほら出るようになっていました。
ただしその時は病院には薬を貰いに行っただけで、特に通院はせず、負けず嫌いな性格や逃げてはいけないという変なマインドがあり、その後も経営陣へのレポートや申立書とそれを用いた提言、倒産した取引先の保証関連の手続きを熟し、気付いたら気が遠くなるような4カ月を乗り越えていました。
でも春になり、ふと、「このままでいいのだろうか?」という思いが芽生えました。自分は営業がしたくて(現場に立ちたくて)、英語を活かしたくてこの会社に入ったのに、前部署の貿易知見が何も活かされないこの部署で時間を使ってしまっていいんだろうかと。そこで思い切って、転職活動をスタートしました。正確には先に退職を伝えて、転職活動をスタートしました。
実は当初は英語を活かせること、ヒトを笑顔にさせられる仕事がしたいとホテルのコンシェルジュを目指していましたが、年収が極端に下がること等から、すぐにこれまでも勝てなかった「見栄」と「両親に認められたい」という思いに負けて諦めました。その結果、私はサービス業に関連する中での大手を探し始め、人材最大手の企業である現職に入社を決めました。その中でもハイクラスの方々の転職を支援する最難関と言われる部署への配属が決定し、両親が喜んでくれたことや、周囲にすごいねと言われることで満足していました。体調やパニック症状もこの時には落ち着いていました。転職を機に良くなるとも思っていました。
(※両親に対する認められたい思いの背景はまた別の記事で記載したいと思います。)
そんなこんなで現職の怒涛の1年がスタートし、あっけなく幕を閉じようとしているのですが、そちらは次のページに記載したいと思っています。
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