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わたしのこと。ー第1章ー#1

〝わたし〟の自伝を書いてもらうなら、佐久間さんしかいないと思いたち2016年にお願いをした。佐久間さんは快く引き受けてくれて、とても素敵な文章が2017年に出来上がり手元に届いた。その文章をここで少しずつ掲載しつつ、その時のことや取材してもらわなかったエピソードを追記していこうと思う。これは、とりあえずの〝わたし〟の備忘録。

鳥飛鳥如、魚行似魚

「いい出会いがたくさんあって、私はすごく幸せだと思う。だから私が逝く時は『お父さん、本当に幸せだったよ』って言って、お父さんの腕のなかで死んでいくから(笑)」
 文江(フミエ)はそう言って笑った。その透き通った声には一片の迷いもない。胸を張って自分の人生を「幸せ」だと言える。素敵な出会いによって、彼女の人生は彩られてきた。
 文江の傍らで照れくさそうに微笑んでいる富美男(フミオ)は、配送の仕事を30年に渡って務めてきた。朝は6時台に家を出て帰りが遅い時には22時を回ることもある。決して楽ではない仕事を黙々とこなし、ドライバーとして25年間無事故で表彰され、定年時にもその功績から表彰を受けた。
 真面目にコツコツと働いてきた富美男だが、若い頃は根無し草のように職を転々としていた。タイヤの販売やコピー機の営業、あるいはアパレル関係……。将来は大好きな車に接する仕事として、カーショップを自ら営むつもりでいた。そんなデラシネ人生を一変させたのが、文江との出会いだ。
 文江の姉が鎌倉彫の教室で講師を務めていた。そこに集まってくる生徒たちが共通の趣味を通じて親密になっていく。そうした流れのなかで2人はお見合いをすることになった。
 明るく快活な文江と寡黙な富美男。一見すると正反対なタイプに見えなくもないが、2人の距離が縮まるのに時間はかからなかった。 
 子どもの頃から体が丈夫ではなかった文江は将来を心配した両親のススメで、二十歳を過ぎた頃から何度かお見合いを経験していた。お見合いという限られた時間の中で自分のことを知ってもらうために、積極的にプライベートなことや自分の気持ちを話す。
「今をコツコツ積み上げてこそ未来がある」
 文江の考えはこうだ。一方、当時の富美男は前述の通り、職を転々としていたことからもわかるように「今が大事で先のことはいい」という主張。意見が食い違い、文江は憤慨してお見合いから帰宅した。
 お見合いは失敗……ではなかった。富美男は自分の意見をハッキリと言う文江に惹かれて猛アタック。お見合いからわずか2週間後にプロポーズをしたのだ。
 2人はゴールデンウイークに海へ出かけた。この日は文江がプロポーズの返事をする日でもあった。なかなか話を切り出さない富美男に業を煮やした文江が「返事はいいのでしょうか?」と聞くと、富美男は「これ…」と短くつぶやいて、ダイヤの指輪を手渡した。答えを聞くまでもなく、婚約指輪を渡したのだ。その真っすぐな姿勢にいつしか文江も惹かれていくことになる。
 出会いから半年、2人は夫婦になった。そしてその1年後、1982年10月に待望の第一子が誕生。幸せな2人の結婚生活をさらに幸せにする、天からの最高の授かりものだった。
◇ ◇ ◇
 九州出身の富美男は同じ九州出身の武田鉄矢の歌が好きだ。なかでもいちばん好きなのは、彼が自分の娘が生まれた時につくった『菜見子』という歌。

「君を“菜見子”と名付けたのは、ボクが菜の花を見ているときに生まれた子だから。
“輝くニッポンの星”にならなくても……いいです。
 春に咲く、菜の花のようになってください」

 この歌詞には菜の花のように明るく朗らかに育ってほしいという、親心がよく表れている。富美男はこの詞が好きで、自分の娘の名前にもそんな思いを込めた。
 秋に生まれた子だけど、春の暖かな陽射しに咲く菜の花のように明るく、女の子だから京都・奈良の古都の雅やかさと古風の良さを知る、美しい娘に育ってほしいと、親の願いを込めて「菜奈美(ななみ)」と名付けた。
 文江のため、そして菜奈美のため、富美男は生き方を変えた。
「夢を追っているだけでは生活ができない」
 先行き不透明なカーショップではなく、クロネコヤマトに就職。以来、家族の生活を守るため、配送業に真摯に取り組んだ。彼の夢は家族の幸せになったのだ。

「いい出会いがたくさんあって、私はすごく幸せだと思う。だから私が逝く時は『お父さん、本当に幸せだったよ』って言って、お父さんの腕のなかで死んでいくから(笑)」この一文を読むと、いまだに涙をこらえることができないぐらい、この言葉を言う母の情景が目に浮かぶと同時に、インタビュー取材を受けていた時はまだ外出もできていたこの時間がすごく貴い。
佐久間さん(佐久間一彦)
1975年生まれ、神奈川県出身。学生時代はレスリング選手として活躍し、全日本大学選手権準優勝などの実績を残す。青山学院大学卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。2007年〜2010年まで「週刊プロレス」の編集長を務める。2010年にライトハウスに入社。スポーツジャーナリストとして数多くのプロスポーツ選手、オリンピアンの取材を手がける。
(webマガジン VITUP! 〝佐久間編集長コラム〟プロフィール引用 )


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