#11 ナル的言語と文化(上)
「〜になります」への違和感
あるとき、知り合いの若い人たちに「日本語を意識したのはどのようなときだった?」と聞いたところ、<日本語の間違いや乱れに接したとき>や<正しい日本語を使おうとしたとき>という答えが返ってきました。そのなかに複数あっったのは「〜になります」に対して違和感を覚えるという声でした。ファミリーレストランやレジなどで耳にしたことがある方も多いことでしょう。
これらは「こちらが」「お釣りが」という主体がなにものであるかという措定を考えた場合、述部としては
を用いるところです。それはちょうど、
をおかしいと感じることに似ています。
ただし今やビジネスマナーなどでは、こうした「ナル」という動詞を用いた言い方は「ナリマス敬語」とも呼ばれ、対人関係においては一つの言い回しとして定着している感があります。それは、「ナル」にすることによって、「私」という主体が消え、事態がおのずから生じたというニュアンスになるからでしょう。たしかに「ナリマス敬語」は人によって許容度の差はありますが、これらが受け入れられるのは日本語が「ナル」的な表現を好む言語文化であるからだと言えます。
「する」と「なる」の言語学
日本語が「ナル」的言語であることは、早くに江戸時代の国学者、本居宣長が指摘していることではありますが、英語との比較考察を通して体系的な分析を示したのは池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』です。池上氏は
を日本語として表現した場合、
という直訳よりも
というように、「ナル」表現を用いた方が自然であることを指摘しています。それに対して、英語は抽象名詞が現象を起こす、物が人に行為をさせるというように「スル」表現が観察されます。こうした例は枚挙にいとまがないのですが、特に、人間の気持ちや感情の変化を言語化する場合に両言語の特徴が現れると思います。例えば、思いがけないニュースを聞いたとき、
というように、日本語では特定の文意でない限り「驚かされた」とは言いません。英語では「喜ぶ−be delighted」などもそうであるように、<何かが私をそうさせる>という事態把握がなされます。一方、日本語では<自然とそうなる>、つまり自発的に気持ちが生じる「ナル」的表現が用いられます。その背景には事態を客観的な視点で捉える言語と、事態を話し手主体の視点で捉える言語という異なりが存在するようです。
#ナル的言語と文化(下)へ続く
エッセイは毎週金曜日に発信します。
【参考文献】
池上嘉彦(1981)
『「する」と「なる」の言語学―言語と文化のタイポロジーへの試論』
大修館書店
池上嘉彦・守屋三千代(2010)
『自然な日本語を教えるために−認知言語学をふまえて』ひつじ書房
守屋三千代(2017)
「『ナル表現』をめぐる認知言語学的研究−類型論を視野に入れて」
『日本語日本文学 』(27) 創価大学日本語日本文学会