母と私
よくドラマとかで娘が母親に向かって「私はあなたのものじゃないの!」と絶叫するシーンがある。
かと思えば母親と娘が結託して父親が仲間外れになるなんてコントのような構図もよく見る。
我が家の場合、私の思春期の頃から母と私しか「いなくなった」ので残念ながら後者のような絵面になったことはない。
父、母、私といれば三角形になって強度が保たれるものが、母と私という線分であるが故に強いようでもろい関係だった。
母と私には共通の趣味がある。音楽だ。
もちろん幼少期にはピアノを介して母とぶつかることも多かったが、2人でコンサートに出かけたり、NHKの音楽番組を一緒に見たり、テレビの中継で見るコンクールを評論家じみて考察したり。
いつしか私の中では母とのつながりの最も太い部分がそこだと思うようになっていた。そしてお互いにとって音楽の占める割合が大きいからこそ、私たちは似通った感性を持っていると思っていた。
しかし。
いつからだろう。彼女と私の感性は違うかもしれないという気がし始めた。
私は秋が好きだ。
ある9月頃、まだ暑いけれど秋の匂いがし始めた時、私は母に興奮してLINEを送った。
「秋の匂いがする!ショパンやグリーグがより一層美しく聞こえるの!」
彼女からの返信の文言を一言一句は覚えていないが「ずいぶん芸術家じみたこと言うのね」みたいな内容だった。
その時ふと距離を感じた。
ドラマよろしく、母に反抗する中で「私はあなたのものじゃないのよ!」と言い放ったことは恥ずかしながら少なくない。
ただこうした思い出を振り返るうちに、私の方にこそ「母なんだから分かってくれる」という途方もない思い込みがあった気がしてくるのだ。
考えてみれば母はベートーヴェンやブラームスが好き。私はショパンやラフマニノフやスクリャービンが好き。こう並べただけで同じ「音楽」ではあっても性格の違いがあることは一目瞭然である。
それだけではない。言葉にするのは難しいが、母と私は違う時代に生まれ、違う親に育てられ、違う環境で育ち、違う教育を受け、違う選択をしてきたのだ。もうそもそも違う人間なのだ。
違う人間に「絶対に理解してくれる」と思い込むのは全く勝手だ。冷たいことを言いたいわけではない。むしろ母と私という関係性を理解するためにそう思うことが非常に私には役に立った。
母はメールアドレスに「プラハ」と入れるほどプラハや東欧の作曲家の音楽も好きだ。
彼女が好きなドヴォルザークを聴けば少し彼女を理解できるかもしれないと思って、ふと思い立ってサントリーホールに出向いてみたりもした。
母と私は些細なぶつかりから半年ほど連絡を取っていない。
母にそのことを詫びる手紙にドヴォルザークを聴いたことを書いてそっと封を閉じた。
そしてやはりと思い出して追伸に「私に音楽を教えてくれてありがとう」と綴った。
彼女はそれを見てどう思うんだろう。
私をやはり理解できない手に負えないと思うのか。それとも通じるものがあったと思ってくれるのか。
ただ母と私は違う人間なんだと分かった今、少し気楽な気持ちで彼女からの返事を待っていられる自分がいる。