noteはじめます。
"You love human.(あなたはひとが大好きなのね)"
インドのマザーテレサの家で出会ったエチオピアの女の子がくれた言葉だ。「人間が好き」そんなこと考えたこともなかったけれど、そのあとからことあるごとにこの言葉を思い返している。
はじめて海外にでたのは大学1年生のことだった。韓国、タイ、ガーナ、ベトナム、インド。決して裕福な旅ではないが、バイトでためたお金で飛行機をとり、安いゲストハウスを借りて時には現地の人のおうちにお邪魔しながらとにかく歩いて、食べて、人と話す。25リットルの小さなバックパックに最小限の荷物といっぱいの希望をもって旅に出る。帰ってくるとたいていごぼうのように真っ黒に痩せて帰ってくることになる。
現在はタイ南部のハートヤイという街にある大学に留学している最中である。ひとつひとつの旅についてはきっといつか記すことになるだろうと思うのでまた今度。
今日からnoteを始めるけれど、その前に私がどんな人間かわからない人も多いと思うので詳しめに乗せておこうと思う。興味ない人は読み飛ばしてくだされ。でもたぶん読んでくれたらもう少し面白くこのエッセイを読んでもらえるんじゃないかなと思ったりしている。
わたしは宮崎県延岡市という小さな工場町で生まれ育った。
小さなころから本を読むのが大好きで自分の身の回りの見たことがない世界にいつか行ってみたいと考えていた。特にファンタジー小説が好きで、上橋菜穂子さんの「精霊の守り人」シリーズや、荻原規子さんの「空色勾玉」シリーズ、ハリーポッターシリーズなどなど、とにかく異世界の物語を読み漁っていた。
一方で、山育ちの母の影響もあってか、虫や自然が大好きで放課後や休みの日はとにかく外でまっくろになるまで遊んだ。家が公園の近くにあってボールやバットがそろっていたので我が家は公園の遊び用具庫と化しており、友達が男女を問わず道具を借りにやってきて、家で一日中寝転がって本を読んでいる私をいつもサッカーやキックベースや野球に連れ出してくれた。
幼稚園生のころから夢は小説家なちょっと(いやだいぶ)変わった女の子だったと思う。(はだしであちこち遊びに行くのでジブリの女の子みたいとよく言われた、いまも言われる)
かつ夢見がちだったので結構うそつきだった気がする。。。(ちょっと物事を大げさにいっちゃったりする癖が、、今もそうかも??どうか多めに見てくれー!)小学校低学年では嘘をついたら地獄に落ちると思っていたので地獄に落ちた未来の自分を思ってどよーんとしていたし、高学年は高学年で2012年に地球が滅亡するといううわさをまともに信じてまだ死にたくないなと悩んでいたりした。(同じ世代の人覚えてないかなー、、)いま思えば全然小学生らしくなくてかなり笑える。
両親共働きで帰りが遅く、鍵っ子だったので帰ってきて一人になるといつもさびしかったけれど、人といるときはいつも元気をもらえて、前向きでいられて。だから人と話すことや友達と過ごすことはそのころから大好きだったんだと思う。
人と争うことが苦手で、できる限り人とぶつからないように生きてきた。あたりさわりなく、あまり何も気にしていないいつでも明るいキャラクターを演じて、誰にでも人当たりが良かったし、ほとんど怒らないし、兄弟以外とはあんまり喧嘩もしなかった。
でも本当は友達に本当の自分を見せるのが怖くて、些細なことで傷つく女の子だったと思う。学校であったうれしいことも、悲しいことも、おうちで父母にいつも話していた。
「自分が楽しいときは必ず周りの人が楽しそうにしているかを見なさい。さびしそうな人や仲間に入れていない人がいたら一緒に仲間に入れてあげるのよ。」
「大丈夫やが、死ぬわけじゃないっちゃかい。」
「世界中の人があんたのことが嫌いになっても、お父さんとお母さんだけはあんたの味方やから。」
たくさんの言葉が私をいつも前向きにしてくれた。わたしもきっと空想好きになるであろう自分の子供に同じように声をかけてあげたいと思う。
小学4年生の時、南スーダンの紛争で撮影された「ハゲワシと少女」という写真を見た。当時の私は食べることがすこぶる遅く、かぼちゃやおくらなど食べられないものが本当に多かった。(母に「せっかく作ってもらったものを残すな、最後まで食え」と言われていたのでオエッてなって涙が出ても一生懸命食べていたが)
その写真はケビン・カーターという南アフリカの写真家が1994年に撮影した写真でピュリツァー賞という賞を受賞したものだ。
栄養失調でパンパンに膨れたおなか、あばらの浮き出た胸、枝のように細い手足の5歳くらいの女の子が、烈火のごとく燃え盛る太陽の日差しの下で力尽きて動けなくなっている。その後ろからハゲワシが少女をついばもうと後ろから狙っているという写真だ。この写真は世界中にスーダンの現実を知らしめた。同時に少女を助ける前にシャッターを切ったカーターはハゲワシと同じだと非難を受けた問題作でもある。悲惨な写真ばかりが喜ばれることに葛藤を感じていたカーターはこの写真でピュリツァー賞を撮った2か月後、自殺している。
「わたし、こんなことでいいのかな?」小学生ながらに思った。世界には私よりもずっと小さな子供がご飯が食べられなくて今にも死にそうになっているというのに、わたしは目の前に出てきたご飯をこんなにまずそうな顔して食べて。贅沢じゃないか。その日から、好き嫌いをすることの意味が分からなくなってなんでももりもり食べるようになった。小学生の感性はほんとにすごいなと思う。と同時に、カーターの写真は、わたしという1人の人生をこんなに大きく動かす写真を撮ったんだってこと、なんと言われようともわたしはカーターがこの写真を撮ってくれて、伝えてくれて、そして今があって本当に感謝しているということを伝えたい。
その写真を見てから漠然と海外へ行きたいと考えるようになった。海外に行って、困っている人のために何かがしたい。簡単にはなれなくて、どこにでも役に立てる職業ってなんだろう、、そんなときに小さな頭で思い付いたのは医者だった。入学試験に一度滑りはしたが、なんとか医学部にとおり、この4月からとうとう大学6年生である。
概略はこんな感じー!ちょいと長くなっちゃったからまた今度ー👀