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日記のような手紙を。

いつの日かの日記は一段一段と行を降りるごとに、まるでその人に向けた手紙のような恥ずかしさを増していた。

その人にそんな「日記のような手紙」を書きたいと思ったけれど、あまりにも恥ずかしすぎた。いつの日か訪れる「なんでも無い日」まで取っておこうと思った。

自分という人とそれ以外の私を取り巻く人、というのは必ずしも「同じようなふたり」でないといけないのか。最近、よくそんなことを考えていた。

私がよく言う「好きな人」たちには何となく、私と同じようなその人であって欲しいなんて、超が付くほど煙たい感情を抱いてしまう。

「私と同じような人」が「私を理解してくれる人」だと思えるからだろう。

こんな感情を直接口に出して誰かに問うことはない。だからこそ、自分がこの感情を一番煙たっがていた。

「同じような」というのは確かにあればあるほどいい誰かと私の共通点のように思えるけれど、「違うような」ふたりはどうだろうか。

まだ幼い今の私と、まだまだ幼すぎた数年前の私も好きな誰かとの「違うような」を探しては避けたり、悲しんでいた。時には、悲しみの先に焦りもあったし、その向こうに嫌いを用意してしまったこともあった。

※好きな人≠恋愛の意味での好きな人

誰かが自分とは違う遠い場所に行ってしまうような感情を抱いたとき、置いていかないで欲しいような気分にもなる。「誰か」が今までとは違うような「誰か」になってしまうような感情を抱いたとき、「今までの」または「私が思ってる通りの」その人であって欲しいような気分にもなる。

でもそんな「違うような」一面に寂しさを覚えることも、がっかりすることもしなくていいような気がした。

私だって、隣で自分なりの道を進んでて、自分の柄を纏って、自分の色で絵を描いている。だから「そんなことをしていたら、たまに目が合いました。そしてお互いキラキラしていました。」みたいな、そんな感じでいきたいな。

私だって、誰かにとっての「今までとは違う」の対象なのかもしれないわけだし。だからやっぱり、「違うような」ふたりであっていいし、あり続けていいんだと思う。たまに来る「同じような」により惹かれながら。

え?まって、、、この「同じような」の部分を書いている途中にランダムに流れてきた星野源の「くせのうた」で「同じような」という歌詞を連呼している。初めましてのこの歌に答えがあるような気がして聴いていたら、耳を疑うようなことを言ってました。

知りたいと思うには、全部違うと知ることだ

星野源『くせのうた』


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