リズム・リズム・リズム
文章にはリズムというのがある。これがすごく大事なのだ。と僕は勝手に思っている。余計なものを加えてしまってはいけないし、そこにあるべきものがないというのもいけない。リズムの感じ方は人それぞれで違ってくるものだとは思うけれど、少なくとも自分にとっては良いリズムであるべきだと僕は思っている。
僕は、そうやって自分のために文章を生み出している。
自分なりのリズムに従って。
それらは、ただ何もないところからいきなり生まれてくるわけではない。決して。(と、僕は思っている。そう思っていない人だっているかもしれないが、そんなことは知ったこっちゃない。)
僕は、自分のリズムというのが確立されてくるまでには、たくさんの本を読む必要があるのだと思っている。いろんな本を読んで、それらが備えているリズムを感じとる。言葉にする必要なんてない。むしろ、言葉にするべきではない。そんなことをしてしまえば、時間と労力とその他いろんなものが無駄になってしまう。世の中に必要のある無駄と必要のない無駄があるのだとすれば、これは完全に必要のない無駄である。
非常に完全に、邪魔なのだ。
そして何より、言葉にしてしまうことは、それらが備えているリズムを非常に粗末なものへと変えていってしまうのである。例えば、も何もない。ただそうなのである。例えば、が欲しい人は、2頭のウシを背負って砂漠をひたすら走り回っておけば良い。日が暮れるまで。
「うまく言葉にはできないんだけれど、何かリズム的なものを感じるんだよな。本当にうまくは言えないんだよ。でも、確かにリズムはあるんだ。」
それくらいが一番良いのだ。
世の中には、言葉にしてはいけないものだってある。
さて、そうやって「リズムなるもの」を感じ始めた時に、何か自分で文章を書いてみる。最初はあんまりしっくりこないんだけれど、頑張って続けてみる。すると、だんだん自分なりのリズムのようなものが固まり始める。少なくとも、僕はそうだ。
そして、僕が備えているリズム−備えることができたリズム、多分備わっているリズム−というのは、僕がこれまで読んできた本が作り上げてくれたものなのである。夏目漱石や川端康成や井上靖や遠藤周作、そして村上春樹(出すと全然キリがないけれど)それらの小説家が、僕のリズムの構築に手を貸してくれたのである。
出来上がった僕なりのリズムを、彼らは生み出すことができない。どんなに素晴らしい賞をたくさん受賞できたとしても、僕のリズムで文章を生み出すことはできないのである。間違いなく。これは、僕のリズムであって、僕以外の誰も同じように生み出すことはできないから。
追伸。追伸。
自己啓発本や「誰かのために」を謳った文章があまり好きではない理由の一つは、それらの文章にはリズムが全く感じられないからである。もちろん、それらに対してリズムを感じる人だっているかもしれないけれど。それから、僕がまだリズムを感じ取れるレベルにいないのかもしれないってこともあるかもしれない。でも、別に感じ取りたいとも思っていない。そうするくらいなら、赤信号で渡って青信号で止まっていた方がまだ良い。
そういえば、村上春樹は「ダンス・ダンス・ダンス」をヨーロッパにいるときに書いたらしい。確かイタリアだったと思うけれど、忘れてしまった。とりあえずヨーロッパである。まあどこでも良いんだけど。