LEE

個人的に。

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最近の記事

リズム・リズム・リズム

 文章にはリズムというのがある。これがすごく大事なのだ。と僕は勝手に思っている。余計なものを加えてしまってはいけないし、そこにあるべきものがないというのもいけない。リズムの感じ方は人それぞれで違ってくるものだとは思うけれど、少なくとも自分にとっては良いリズムであるべきだと僕は思っている。 僕は、そうやって自分のために文章を生み出している。 自分なりのリズムに従って。 それらは、ただ何もないところからいきなり生まれてくるわけではない。決して。(と、僕は思っている。そう思って

    • ビートルズを聴きながら

       僕は、Iを「僕」、そしてYouを「あの娘」にしてしまおうと考えた。だけど、なんだかそういうことはしないでおいた方が良いような気がした。 なんでそうしたのかは、分からない。  僕はいつも題名を最後に決めるのだけれど、今回は題名を先に決めてみることにした。なぜか、この「ビートルズを聴きながら」という言葉が浮かんだのである。「そうだ、これを題名にして何かを書いてみよう」と。 今は、”something”が流れている。僕はあんまり歌詞を調べたりすることはしないのだけれど、せっ

      • 踏切の音と日曜日のねじまき鳥

         夜になると、踏切の音がどこからともなく聞こえてくる。カンカンカン。あれ、ここら辺には踏切はないのになあと思いながら、耳を済ませてみるとやっぱり踏切の音だ。しかし、思い当たる踏切の場所はなかなか遠い場所にある。少なくとも僕の常識の範囲では聞こえてくるような距離にはない。でも絶対に踏切の音なのだ。 夜になると、遠くの踏切の音がどこからともなく聞こえてくる。虫の音に混ざって。  さて、書き出しをそれっぽく書いてみたものの、この調子で続けるのはなかなかに疲れる。それから、ちょっ

        • 近隣のピアノと遅いめの朝食

          「説明しないと分からないということは、説明しても分からないということである」という、1Q84(村上春樹)の言葉を置く場所がここしかなかった。 ねじを巻かない日に、あてもなく何かを書くというのは結構良いものである。行くあてがないというところが大事になってくる。行き先を決め目的を持って書こうとすると、ねじを巻いてしまわないといけなくなるから。 出来るだけ見切り発車をして、出てきた言葉をそのまま素直に書いてみるということがなかなか大事なことなんだと思う。辻褄を合わせる必要はない

          追伸を最初に

          まあ、いいや。で済ますことができたのでそんなに厄介ではないみたいである。 それから、“ネジ“よりも“ねじ“のほうが“ねじ“っぽくて良い。もし「ねじまき鳥クロニクル」が「ネジまき鳥クロニクル」であったら、僕はそれを読まなかったのかもしれない。もちろん嘘だけど。 これは、日曜日にねじを巻いた僕が月曜日に書いたものになる。一応書いておく。昨日が木曜日で、今日が金曜日な時に読んだ場合に備えて。 ねじを巻くべきでないときに、巻いてしまうというのは、ねじを巻くべき時に巻くことができ

          追伸を最初に

          題名はいつも、最後に考える

            結局なんだかまとまりのない文章になっているけれど、まあそんなものである。まとまりのある文章はまとまりが求められる場でのみ書かれるべきなんだと思う。 まとまりを求めていない場に、まとまりのあるものが突然出来上がってしまうとこっち(どっちだっていい)だって相当に驚くんじゃないかな。とりあえず、この場はまとまりを求めていない場所なので、まとまりのあるものを求めてやってきた人は違う場所に速やかに移動した方がいいのではないでしょうか。  少なくとも、僕は6歳の時より知っているこ

          題名はいつも、最後に考える

          自己満と「美」

          僕は自己啓発本が好きではない。 正確に言うと、好きではなくなった。これまでも特に好きだったわけではないけれど。 一歩踏み出せ、頑張れ、努力しろ、もっと結果にコミットしろ、がんばろうぜ、みたいなことが書かれているんだと思うけれど、なんだか好きにはなれない。 僕も一時期、自己啓発本を読み漁っていた時期がある。 リーダーになるためには、とか、後悔しないためには、とか、成功するためには、とか、そんな感じのものを読むことが何かすごく大事なことだと思っていた時期があるのだ。今思えば笑

          自己満と「美」

          遜り

          隙あらばされる長い自分語り。長すぎる自己紹介。 この2つが僕はあまり好きではない。個人的に。 これから書くことと特に関係はないけれど、これだけは先に言っておきたい気持ちがなんだかしたので。 これこそが隙あらばされる自分語りである。 短いから許して欲しいのだけれど。 まあそんな感じて本題に入ってみたいと思う。 人と話すことは楽しい。凄く、まではいかないかもしれないけれど、楽しい。自分の考えを聞いてもらえるし、他人のとんでもなく面白い意見・考えを聞けることがある。とんでも

          代償と囲い

          「代償と囲い」って、なんだかそんなに悪くない小説の題名みたいな感じがして気に入っている。個人的に。 ワタナベ君は日曜日にはネジを巻かない(ノルウェイの森の話)。だから僕も、日曜日には極力ネジを巻きたくはない。だから、というのも変だけれど。 ただ「課題」というのをやらないといけないから、 今日は少しだけネジを巻かないといけなくなる。7回くらい巻けば多分大丈夫だとは思うけれど。 それにしても、やらなければいけないことに左右されてしまうなんてあんまり良い気はしない。なんだか悔

          代償と囲い

          テレパシー

           この題名だけみると、なんだか自己啓発本っぽい気がしてしまって「うーーん」という気持ちになってしまうけど、そこは気にしないでくれるとありがたい。 ※題名を変えたので、この文章では辻褄が合わなくなってしまっているけれど、面白いので残しておく。  たとえば、今頭の中で考えていることがあるとする。 そして、それを形にして表現する媒体が僕にとっては現時点で言葉というものしかない。 要するに言語化。 就活セミナーとか自己啓発系のセミナーで流行りの言葉だと勝手に思っている。(就活

          テレパシー

          差別をするな!という差別

           人種差別や性差別などのような〇〇に対する差別というのは、決してあってはならないことだし、そういう偏見や差別がなくフラットに物事を見れるのが最も望ましいことであるのは誰がなんと言おうとそうである。  ただ、これはあくまで個人的な意見だけれど、人っていうのは自分では気付いてないだけで、どうしても潜在的に偏見や差別的な考えを持ったりしてしまうと思っている。 僕だって偏見を持ったり、差別的な考えを持ってしまうことだってきっとある。 もちろんそうしないように努めてはいるけれど。

          差別をするな!という差別

          嘘をついても別に目は泳がない

           「心理学研究が明らかにするところとしては、嘘と視線行動には関係がない、ということになります。」(村井、2018) 要するに、嘘は別に目を見たからといって分かる訳ではないらしい。 だから、相手が嘘をついているかどうかについて、目だけを見て判断してはいけず、無用な誤解は対人関係の崩壊につながりかねないと村井(2018)は述べている。 右上を見ているのは嘘をついている時だとか、左上を見ているのは本当のことを言っているみたいなことが言われているらしいけど、、 嘘をついている時

          嘘をついても別に目は泳がない

          今の時代を好きだと思わないことには

           僕は今大学院生で、ほぼ毎日論文を読んでいる。そこまで楽しい訳ではないけど、つまんない訳でもない。 そして、世の中は新型コロナウイルスで、なんだか大変なことになっている。  授業はオンラインで、ゼミもオンラインになっている。これからの時代、このオンラインというものは普通になっていくかも知れないけれど、 とにかく今はそれが普通ではないと言われる時代なのだ。おそらく。  そして、僕はそんな今の時代が割に好きなんだと思う。もちろん、今の、いわゆるコロナ禍における状況は全然好きで

          今の時代を好きだと思わないことには

          僕は一応ちゃんと大学院生をしている

           僕はいま大学院で、東アフリカ(特にタンザニア)をフィールドに社会開発の研究をしている。まあ入ったばかりだし、研究って言っていいのか分からないけれど。とりあえず、社会開発について勉強をしている。タンザニアに行ったことはないんだけども。  どんなことを研究しようとしているかと言うと、観光開発が地域住民に及ぼす影響についてである。具体的に言うと、CBT(Community Based Tourism)という観光開発手法が地域住民に及ぼす影響について調べていくつもりである。 C

          僕は一応ちゃんと大学院生をしている

          美味しくない料理が美味しくない訳じゃない

           いつも僕は思っていることがある。(書き出しのバランス的に、いつもと言ってはみたけれど、そんなにいつもではない。)  それは、「面白い」とか「凄い」に比べた時、そうじゃないものにたいして、「面白くない」とか「凄くない」とかマイナスなイメージ(僕だけだったら申し訳ない)を持ってしまうのは良くないんじゃないかなということである。ここでもう既に「良くない」という表現をしちゃってるのはちゃんと目を瞑って欲しい。  「凄い・面白い」方が凄いし面白い(なんかアホっぽい表現になっちゃて

          美味しくない料理が美味しくない訳じゃない

          これは多分ぎりぎりエッセイである

           僕は今、パッとしないアパートの103号室に住んでいて、102号室に住んでいる人は、休日の朝に結構な頻度で下手くそな歌を歌っている。もちろん知らない人。 その歌声で目が覚める朝というのを想像してみて欲しい。しかも、それは休日なのである。まあ、なかなかに辛いものだ。なかなかを少しばかり超えてる気もする。 歌うのが悪いわけでも、下手くそなのが悪いわけでもない。その歌声で僕の目が覚めるのが悪いのである。歌うのは何も朝っぱらからじゃなくても良いんじゃないかなあといつも思っている。

          これは多分ぎりぎりエッセイである