漫画『Thisコミュニケーション』最終話感想
※ネタバレあり
はじめまして。
『Thisコミュニケーション』という作品をご存知でしょうか。
先日ついに完結を迎えたディスコミですが、僕にとってこの作品は「読み終えたあと衝撃で夜眠れなかった漫画」でした。
特に最終回の締め方は本当にこれ以上ない形をしていて、用意された設定やキャラを最大限活用して限界値を叩き出していると思います。
ここまでの刺さり方をした作品は本当に久しぶりで、アカウントを作ってnoteで叫びたい衝動を抑えきれませんでした。
正直自分がちょっと特殊な読み取り方をしている自覚はあるし、「話をちゃんと理解できていなかったゆえの感想」という部分もあるので、「こういう意見もあるんだな~」くらいの気持ちで読んでいただけると幸いです。
『Thisコミュニケーション』最終話のあらすじ
※以下最終話の完全なるネタバレ
ネタバレを伏字にしたかったんですが、noteでのやり方が分かりませんでした……。誰かやり方知ってる人いたら教えてください
デルウハの異常性
当初デルウハとは、あまりにも合理主義を突き詰めただけの人間であり、しばしば(特に連載初期に)見られた「味方殺しの悪癖以外はまとも」「常識や倫理観を持ってはいるが、殺人のメリットが上回ればためらいなく人を殺す」というキャラ評が妥当だと思っていました。
しかしデルウハの味方殺しは表層であり、真に異常なのは
「命ある限り生きたい」「生きた証を残したい」「他者との繋がりを失いたくない」といった人間が普遍的に持つ欲求が一切ないこと
「デルウハにとって重要なのは1日3度の食事ただそれだけであり、食事は目的でも手段でもなく、生きることそのものであったこと」
この2点だったことを、デルウハが最後に自殺したことでやっっっと理解できました。
前者の欲求に関しては、欲求というよりも人類が繁栄するための習性というか本能というかルールみたいなもんで、フィクションだとしても特に言及がなければキャラクターはこれらの欲求を抱いてることを前提にして読むものだと思います。
「俺にそんなものは無い」と言うキャラがいたら、僕は「抑圧がやばそうヤツ出てきたな」「人間じゃないのかな」くらいに解釈して読み進めます。
後者の3度の食事に対するこだわりに関しては、「食い意地が張ってる」程度の認識しかしていませんでした。
デルウハの脳を取り込んだ人付きが、空腹を感じないことに絶望して死亡したときも、デルウハが単なる合理主義者ならば「飢餓を克服した」と思うはずなのに、そうではなかった。
冷静に読み直すと、それこそデルウハの異常性を表したシーンなのに、僕はこれをギャグだと捉えてしまい、ハントレスたちと一緒に「どんだけ食うのが好きなんだよ!」とツッコんでました。
確かに作品内でされている描写を正確に読み取れば、本当に「デルウハはそういう人間である」としか読めないんですが、
まさか主人公がガチでそういう人間だとは普通思わなくないすか……?
これが普通の主人公なら、最終話で「日々の食事を切り詰めて、1日でも長く延命し、生存者や安全圏を探す」という方向性になるはず。
なんなら奇跡的にハントレスが生還する可能性に賭けたりもするでしょう。
でもデルウハは毎日キッチリ3食食べて、それが無理になったら飢える前にあっさり自殺する。
もう人間というより「1日3食で契約できる悪魔」じゃん……。
序盤からそうであることは示されてましたが、特に終盤ラストに向かうにつれて「合理」というワードに「本能」とか「狂気」というルビがついたりしてて、デルウハが人間と違うルールに生きている存在であることが強調されてたように思います。
実態も悪魔だし、
役割も悪魔だし、
悪魔を自称することもあるし、
作中大体のキャラから1度は悪魔呼ばわりされてる。
こいつは本当に人間なのか?
デルウハの行動って「合理的だから」よりも「悪魔だから」の方が納得できるときあるし……
読み返して唯一デルウハを人間っぽいな感じたところは、吉永に祈る時間を与えるシーンでした。
デルウハは余裕がある状況だとわりかし融通を利かせてくれるけど、それは結局仲間の士気を上げるためであって、これから殺す吉永を気遣うメリットは無いしね。
(追記:これに関して「デルウハはこれからいなくなる邪魔者に対してだけは優しい」という考察を見つけて、邪悪すぎて笑っちゃいました)
悪魔である根拠はいくらでも出てくるのに、人間である根拠が少なすぎる!
読者もデルウハを「勘違い」していた
読者というか僕なんですが……
ご覧の通り、恥ずかしながら僕は最終回を読み終えるまでデルウハというキャラクターをちゃんと掴めていませんでした。
まさかここまでイカれた男だったとは!!
これがディスコミュニケーションってやつか…(?)
一日3食が何よりも重要なのは分かっていたけど、それが不可能になった途端に何の未練もなく自殺するとはさすがに思ってませんでした。
1話の時点で全く同じことをしてるのに……
最終回の公開直後から「まあデルウハならこの終わり方以外ないっしょ」という感想を結構見かけたのですが、僕が最終的にそういう結論になったのは、完結後に読み直してからでした。
最終回の1話前で研究所の人間を皆殺しにするという明らかな一線を越えていたし、それはハントレスをメンテできる環境も捨てたことでもあるし、そもそもハントレスとは再会しないことが明言されていたので、まともな最期を迎えないとは予想していました。
しかし8年間ひたすら一人でメシ食って自殺するとは想像してなかった!
最終話を読んだとき「え、自殺?」と普通に驚いて、後から「お前、そこまでガチのやべーやつだったんか……!」という戦慄が来ました。
最終話で主人公が死んでようやく主人公のキャラクターの全体像を掴むという叙述トリックみたいな感覚を味わいました。
この漫画、楽しみ方これで合ってるのか……!?
逆にすんなりこの結末に納得した人って、物語を雰囲気で読むんじゃなく正確に理解しててすごいなって思います。
でも僕はちゃんと読めてなかったおかげで最終回のハントレスとテンションが同期したので、カタルシスが上がりました(開き直り)
あと半分メタ的な推測ですが、僕はデルウハが最後の最後で人間であることの証明を迫られるものだと思っていました。
この作品はタイトルにもある通りコミュニケーションを大きなテーマとして扱っています。
いかなる打算があったとしても労力を惜しんではいけない。信頼を得るにはそれが一番大事というのはこの作品で示された強固なメッセージのひとつですが、それはそれとして最終的に人を救うのは真実なのでは?という思いは読んでいて常に頭の片隅にありました。
クライマックスってそういうもんじゃね?とも思ってました。
僕が今まで見てきた作品の多くがそんな感じだったし、ちょっと僕の思想的なところもあります。
「いや、最後の最後でデルウハが人間らしさに目覚めたら興ざめもいいとこだろ」というのは分かるんですが、こういう王道の通過儀礼なしに話を畳むことって可能なのか……?という考えの方が強かったです。
キャラが畜生な方面で一貫してるのって読んでて楽しいけど、それの一点突破で最終回を迎えたら何のオチも生まれないのでは?
デルウハがなにかしらの回答を出し、それがどう転ぶかはともかく、デルウハは己の人間的な核心を試されるんじゃないかと。
というか47話でデルウハがハントレスを殺害せずに負けを認めて向き合うという選択肢をとったことが、まさにデルウハの合理性が情愛のルールに取り込まれたということだと思ってました。
終わってみれば普通に誤読だったんですが、もしかしたら意図されたミスリードだったかも。
ともかく僕は主人公のデルウハに感情移入していたつもりだったんですが、気づいたら「デルウハも最終的にはほんのわずかでも損得なしの感情を獲得してくれるのか?」と完全にハントレスたちの目線に立って読んでました。
「デルウハに限ってそうなるわけがない」ってのは重々承知だけどね?
いうて漫画の最終回なんだしね……?
…それがまさか、悪魔であることを証明して終わるとは!!
『Thisコミュニケーション』は究極の人間賛歌かもしれない
『Thisコミュニケーション』の終わり方には人の数だけ受け止め方があると思いますが、僕はあのラストが一番のぶっ刺さりポイントというか、この作品の一番非凡なところだと感じてます。
僕みたいにデルウハに対して普通の人間性を期待していた人間も、最終話で「あ、こいつここまで苦楽を共にした相手にも一切愛情を抱くことないんだ……」と否応なく理解するハメになりますが、それとは真逆にハントレスたちは「自分たちはデルウハに愛されていた」と世界一優しい勘違いをするわけですね。
この極限の対比と、「勘違いが世界を救う力にすらなる」という結論は、非常に美しくて力強い、僕が今まで出会ったことのないメッセージでした。
創作において他者との交流を扱った作品は、ガンダムのニュータイプ論だったり、エヴァの人類補完計画だったり、それこそ昔から多種多様のものがあります。
それらの多くは、「互いを理解し合うことの不可能性」「他者と関わるために自分をあざむくことの歪さ」「そうした不完全性を持って生まれた人という愚かな生物への蔑視」など、人同士の交流という営みに対する絶望をスタート地点にしています。
スタート地点が絶望なので、基本的にこれらの作品の着地点は、「苦しみながらも他者を受容していこう」とか「不完全でも(不完全だからこそ)互いを補い合って生きていく事こそが愛だ」とか「バカな人類を───それでも愛そう……」みたいな、人類への消極的な肯定という形が取られがちです。
少し間口を広げると、「人を救うのは神(全能者)からの愛」みたいなのも割とある気がします。
しかるに『Thisコミュニケーション』はどうだったかというと、
これすごくないですか?
愛が勘違いの産物であることなんてただの前提に過ぎない。
こんな身も蓋もない話に、
ここまで説得力を持たせた作品があっただろうか!?
『Thisコミュニケーション』がその最後に描いたものとはすなわち、「人は悪魔の言葉すらも愛の力に変えられる」という究極の人間賛歌なのだと僕は解釈しました。
ディスコミュニケーションという語はコミュニケーションが機能してない状態を指すが、実はそんな真実味が欠落した「ディスコミュニケーション」から愛を生み出せるのが人の強さであると。
人間の在りようをこんな風に肯定する作品は初めて見た……というか
人間の在りようをこんな風に肯定することが可能だったのか!
「愛は勘違いなんだからそもそも真実の愛なんて無い、けど別にそれでかまわない」というラストには、僕が今まで見てきた作品の「きっといつの日か人は真実の愛を得るだろう」的な希望を提示するラストの、その続きを見たような気持ちです。
なんというか、これまでの「愛」とか「物語」に対する価値観が音を立てて覆ったような感覚になりました。
これまでは愛の物語について、「どれだけの障害を乗り越えたか」とか「その作品において描かれている愛には必然性があるか」とか「読み手を納得させるだけの強度と説得力があるか」でしか良し悪しを測ってませんでした。
究極の人間愛を追求する系オタクからついに卒業しそうです。
あともうひとつ最終話の好きなところが、最終話の要点が過去話で既に提示されていたというところですね。
デルウハが食事に対して依存のような信仰のような常識離れした感情を抱いていることは、序盤から散々示されてるし、
「愛だの情だのはただの勘違い」「情なんていうそのもの以上を勝手に感じ取る能力なんて俺にあるかよ」という発言もしっかりあります。
未解決の謎を回収していくタイプの伏線も好きですが、
こういう、描写や言葉のひとつひとつが後々の展開で別の意味合いを持ってくるタイプの伏線(?)も結構好きですね。
1話冒頭でデルウハが自殺したのは単なる導入くらいに思ってましたが、読み終えるとデルウハが「1日3食の悪魔」であることと、最終回でもデルウハは何ひとつ変わっていなかったことの証拠でもあります。
他にも初めてよみの頭をカチ割ったときの「こういうのは2くらいでやるのがいい」を終盤で再現してたり、序盤の要素が再利用される漫画って良いですよね。
読み返す楽しみがあるし、読み返すほど「こういう風に終わるしかなかった」という納得が強まっていきます。
いやー……本当に素晴らしい作品に出会えました!
おわり
そんなわけで『Thisコミュニケーション』、ものすごく楽しませてもらいました。
アニメ化されたら是非動いてるデルウハたちを見てみたいですね。
ファンからはよく「こんな殺人鬼をお茶の間に流せるか!」と言われてますが、2回目以降の殺人は残酷さよりも面白さの方が上回っているので、最初の1回を乗り越えたら多分大丈夫……なはず!
実際のところデルウハ殿が何のためらいもなく味方の頭を吹き飛ばしたり、自業自得で窮地に陥ってる光景って、普通にギャグとしてのパワーが高いというか、割と万人受けしそうな気がするんですよね。
(終盤の壊れたデルウハはちょっと厳しいかもしれないけど)
キャラもストーリーも魅力的で作り込まれているので、ぜひ多くの人に読んでほしいです。
おしまい
ちなみに僕が一番好きなキャラはいつかです
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