古文の論争と重ね合わせと少しキスの話
なぜ古文を勉強するのか?という論争があったことを最近知った。
自分も国語は苦手で特に古文はダメで追試も受けたな。
でも大人になって、外国に貧乏旅行などに行って、外国語の重要性や文化というのを意識すると改めて古文というのは大事なものだなと個人の意見ではそう思う。ただ今の若い人、これからの人たちにとって重要ではないのであればなくしてもいいとも思う。今回の話は論争のどちらが正しいかという話ではない。
話をしたいの重ね合わせのイメージについてであって、それを古文というものを量子的なイメージで話をしてみようということ。
量子的、重ね合わせというのはどういうことか? AというものとBというものを同時に存在しているというと語弊があるのだが同時に存在している。語弊といったのは量子論では確率によって存在しているので実際には同時というのとはまた違うのだがイメージとしては同時に存在、重ね合わせで存在している。
古文を言語、外国語の勉強と考えた場合、古文と現代文の違いは何か、また現代文と外国語(英語など)とどう違うのか? 量子論的に述べていきたい。
古文と現代文には多くの共通点、使っている文字や文法は同じものも多く使っています。対して現代文・日本語と英語は使っている文字も違いますし、文法も大きく違います。これらのことを量子論、重ね合わせでイメージしましょう。現代文と古文は共通点も多くあり、重なりあっている部分が多い。日本語と英語を比較した場合、共通点が少なく重なり合いが少ない。日本語は少し特殊ですが英語などラテン語から派生をして、英語とドイツ語、フランス語などは現代文と古文のようだと言う人もいます。人によってかもしれないけれど、何でもやりやすいものから始め慣れ親しんで、ステップを挙げていった方がいい場合もある。外国語などの他の言語を学ぶのに古文を勉強しておくと他の言語を勉強するというイメージをしやすくなるようにも思う。
また古文というのは他の次元も持っている。本当に古文の能力が必要なのは歴史学者になってくるだろうが歴史などの文化などを知るという側面もあるだろう。現代文と古文の違いにおいて、表現だったり、言葉の使い方だったり、違う点を比べることで文化というのも深く理解できることもあるように思います。
自分も古文は苦手だったので古文はいらない、という気持ちもわかる。けど、外国に行って、現地の人とより親しくなるにはコミュニケーション、言葉を使いこなせた方がいい。言語の勉強のはじめとして古文はあっていいと思うし、また違う視点、歴史や文化という側面からみても古文を勉強することでより深くそれらのことを意識できるようになるとも思います。
また古文の是非の論争とは少し違うのかもしれないけれど、遠藤周作のなぜキスする時に目を瞑るのかの解説が好きで簡単に説明します。簡単に説明すれば、愛し合っているから現実以上の世界にいきたい、視界があることで現実世界にいるしかないけど視界をなくすことで二人だけの世界を作り出す、と推測していました。実際、脳への実験ができるようになって、視界をなくすことで他の感覚が鋭くなり、快感が起きやすくなるという科学的な根拠がわかっています。
ある意味、古文を勉強するというのは目を瞑ることと同じようなことかもしれない。目を開けていてもキスはできる。しかし、より快感を得やすいのは目を瞑ることで視界をなくし、他の感覚を鋭くする状態だ。古文だけではないが勉強というのは時として、人によっては辛い行為かもしれない。ただ知っていることでより多くの情報、経験ができることもある。そう思う。
少し古文の論争に意見を書いてしまいましたが重ね合わせのイメージの例として説明しました。
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