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非日常(ニチジョウ)



とある音声配信の枠で聴いていた。


配信主の。検査が。そして全身麻酔が。何もかもが怖いという話。


そうだよな。それが自然な反応だよな。そんなことを思いながら。ポツポツとコメントを返す。


人にとってのそんな非日常が。自分にとっての日常になってしまったのは一体いつからだろう。




医療に足を踏み入れた当初は。何もかもが非日常で。患者さんや家族がどう感じるか?とても敏感に察していたように思う。


当たり前のように命の灯火が消えていく。あるいはその灯火が消えようとしている。そんな人々が大勢いる環境の中で。


そんな環境のなかで過ごす時間が。いろんな人たちとの出会いと別れを繰り返しながら。まもなく10年目を迎えようとしている。


音声配信を聴きながら。不安や恐怖といったさまざまな感情に触れながら。


日常で出会う患者さんたちもそういう気持ちを押し殺して。治療や検査に臨んでいるんだろうなと。


非日常で感じるであろう当たり前の感情を。思考を巡らして思い出さなければならない自分に驚いている。




思い返せば。患者さんの生々しい声や感情に触れる機会が多い一般病棟で働いていたときには。たくさんの物語があった。今でも。さまざまな情景や感情を鮮明に思い出すことができる。


あの頃は。患者さんの感情にもう少し近かったように思う。


でも。今の自分が働いている無機質な空間に運ばれてくる人たちは。そのほとんどが生命の危機にある人たちで。苦痛に顔を歪めるか、そもそも意識がなくて。会話ができる状態にない人たちだ。


そこには人と人との交流というか。人と人との化学反応みたいなエネルギーというか。感情が行き交うというよりは。


命を保たせるための思考を一方的に叩きつける感覚というか。


たとえば血を吐いてる人がいたら。普通は驚きと恐怖と。普段目にすることがないであろう「死」を意識してショックを覚えるだろうけども。


血圧は?心拍は?呼吸は?意識の状態は?失われた血液の量は?身体の中の血液量はどれくらいか?ヘモグロビンや凝固の数値は?細胞に酸素は届いてるか?いま最優先で行うことは?次に行うことは何か?準備すべきデバイスは?薬剤は?関係部署への連絡は?家族への連絡は?

こうした思考を同時に巡らせて患者さんの救命にあたる。そこには自分の感情や患者さんの感情が入りこむ余地がないことが多い。


緊張感が漂うその空間で。わざとゆとりを演出するかのように。医者や看護師たちは雑談や冗談を話したりするけども。それは緊張に呑まれてミスをしないようにするためであり。


怖いとか。不安とか。医療者だってそういう感情を感じるけども。患者さんや家族に負の感情を連鎖させて動揺してしまわないように。自らの負の感情は飲み込んでしまう。


救命できて生命が安定しても。まだ弱々しく余力がない人が多く。そしてある程度回復したのなら一般病棟に移動していく。良いことなのだけども。


なんか。疲れたな。


そう感じることが多々ある。


環境だけじゃなくて。人との関係も無機質だな。


そう感じてしまう。




いまの部署に異動する直前にあった、20分間の出会いが忘れられない。


その人は凛とした佇まいの品の良い女性で。自分が担当したその日に出会い、そしてその日にホスピスに転院していった。


末期がんで治癒が不可能となったその人は。自らの意思で積極的治療を断念し、自らホスピスに転院することを選択した。


"わたしは自分で転院することを選んだの"


退院前の手続きをするために訪室した私に。自らに言い聞かせるようにそう話した。


そうした選択もありですしそうして有意義に時間を過ごされる方もいます。私は〜さんの選択は立派だと思います。


積極的治療ではなくホスピスへの転院を選択したことを誰からも賛成されず応援されてこなかったその人は。目を見開いて涙を流しながら。"ありがとう…ありがとう" そう何度も呟いた。


死を迎えるとき。人は孤独である。そんな孤独で手探りな時間の中で。後悔なく最後を迎えられる一助になれただろうかと考えながら彼女を見送ったけれども。彼女の晴れやかな顔とエレベーターのドアが閉まるまで深々とお辞儀をされていたこととが答えだと思う。


20分間の出会いのように。一般病棟ではドラマ顔負けの出来事を何度も体験した。人と人との交流がそこにはあったし。非日常の中にも日常があった。


翻っていまは。医療ドラマにあるようなドラマチックな展開なんぞどこにもなくて。


泥臭く文字通り血にまみれながらも。救命できず突然の別れを迎えるとか。救命できても障害が残ったとか。弱ってしまって以前のような生活ができないとか。

なんかそういうことが目に入りすぎて。


心を浪費すれども。ほんとうに力になれてるのか?いまやっていることが患者さんや家族のためになるのか?と悩み続けることすらザラにある。

患者さんの家族は。身近な人の突然の命の危機に動揺し葛藤し。心の中で様々な感情を抱えながら。回復を祈りつつも現実を受け止めきれない思いが。声に出さずとも表情には表れていて。


そんな家族をサポートする時間も短くほとんど力になれない不甲斐なさに脱力する。




そんな非日常が自分にとってのニチジョウになってしまっている。




日常に飢えてるんだろうな。素直に怖い怖いと感情を表現する音声配信者の声を聴きながら。素直な感情表現を羨ましくも思いながら。そう考える。


だからこそ。友人たちとの時間を。そこでの会話を。そして音声配信での交流や会話を。そこにある日常をたまらなく愛おしいと感じる。


他人に関心がないという前回のnoteと矛盾するかもだけども。


リアルでもネットでも。言葉と言葉を紡ぎ会話できることが喜びで。そうした温かさを渇望してるんだろうと思う。生命の儚さを知るからこそ。そうした時間をなおさらに大切に感じるのかもしれない。


ここ数年何度も思うことだけれども。


他人に無関心だと分かったからこそ改めて思う。


今ある人との繋がりを。関係性を。大事にしよう。



だて。



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