存在と所有
先週末、自分が昔使っていた実家の部屋の、机と本棚を整理と片つけをしました。
机の引き出しの中と机の上の物をどけて、机を空にして運び出しました。
昭和時代のスチール製のコクヨの机はずっしり重たい。
それだけいい作りをしてるんだな、と思う。
ライトハウス英和辞典は第2版だって。発売記念価格2,400だって!
福武書店の国語辞書。これなんて今、貴重なんじゃない?
スヌーピーのファイル。分度器とコンパス。使いかけのノート。
電気スタンドは、まだ使えるけど、もう何年も使っていない。
全部、もしかしたら貴重品かもしれない。
なんて一瞬思うけど、イカンイカン。整理しよう。
いきなり学生時代の写真が出てきて、まんまる顔の自分が無性に恥ずかしくなったり。記憶の扉が不意に開いて、あんなことやこんなことを思い出して、遠い目になったり。
甘い記憶やほろ苦い記憶より、しょっぱい思い出がいっぱいある。
黄ばんだ藁半紙のプリント。歴史の問題集。
こんなのなんでとってあったんだろう?
ある時から時間が更新されることななかった昭和、平成の堆積物たち。
思い出が詰まったままで、忘れていた物たち。
「自分を手放す」とか、「断捨離」とか言います。何もかも捨ててしまう。それは前向きに進む感じがある。
でも、私には忘れられない思い出や手放せない物がある。だって、それも自分の一部分だったから。だから手放せないものは無理に捨てなくてもいいのかも。
自分が関わって作ってきた時間の形を整理するのは、自分のかけらを自ら手放すようで、少しためらう。
それは、もう使うことも振り返ることもない物だけれども、自分の記憶もそこに在ることが安心感だったかもしれない、と思ったから。
挫折もあったし、楽しい思い出ばかりじゃない嫌な思い出も、未消化のままで残っている傷もまだあって、そのままで封印してたこともある。
けど、成功体験だけが私でなくて、悲しかったことも恥ずかしかった記憶も、失敗した経験も、それらを全部含めて、私を構成する要素だったと思う。
物質は捨てられても、記憶に残って、消せないし捨ててしまえない思い出は、自分の心の中に引き出しを作っておいて、そこにしまっておこう。
それらも、もしかしたら、自分を守ってくれているかもしれない。
やがていつか思い出さなくなった時がきたら、その時、執着から自分を解放できる時なんだろう。それまで持っていても良いのかも、と思う。
急に新しい自分なんてなれるわけがない。
過去を捨てればいいってものでもないでしょう?
過去からの、いろんな繋がりの中で、私たちは生かされているんだから。
経験や失敗から学んどことを活かして、自分にとって大事なのもは何か問いかけながら、選んで、決めて、自分になるんだと思う。
そんな独り事を心の中で、つぶやく。
計画通りに終わってよかった。午前中は大きな机や本棚を部屋から運び出し、午後は収納してあった物を分別してまとめ、資源物や可燃物の日に出せるようにまとめました。
掃除を終えて、部屋はガランとしちゃった。広くなった部屋は、余白は増えたけどそこにあった時間も一緒に消えてしまったようで、ぽっかりしちゃった気分。
私は本当にそこにおったんかな?
物を所有していたというより、それらの存在に自分のアイデンティティーを置いていたのかもしれない。
そして、頑張りすぎて翌日から体調を崩した。
物と一緒に自分の一部も手放してしまったから心が風邪を引いちゃったんだな、と思いました。