手放してこそ
先日、市内の葬儀屋さんん主催で行われる人形供養祭に、雛人形を持っていきました。この雛人形は私の初節句に母方のおばあちゃんが贈ってくれたお雛様です。
質素な造りだけど7段飾りのお雛様で、私は自分のお雛様が世界で1番素晴らしいお雛様だと誇らしく思い、とても大好きでした。
私の誕生を祝い慶んでくれたおばあちゃんの気持ちが今も感じられるお人形です。
「またお雛様の季節が巡ってきた。」
一年に一度の桃の節句は、人生の節目節目を大切にする伝統で「時 とき」を振り返る良い機会でした。
毎年二十四節気の「雨水」に出して飾り、「また来年会いましょう」と、お雛様をしまうまでの期間は、私の一年を振り返る時であり、積み重ねて来た時間という感じがします。
子ども時代だけでなく、大人になる途中でも、大人になってからも、ぬいぐるみや人形は趣味や単なるファンシーな置き物でなく、心を支えてくれる友だちでもありました。
寝る時に暗い部屋が怖かった時も、友だちとのいざこざで悩んでいた時も、涙する日も嬉しいことがあった日も、いつも抱きしめて、その時々の気持ちを抱きしめ返してくれる存在がぬいぐるみやお人形でしたから、小さな子どもの心を守護してくれる存在です。
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そうやって生きて来て、気がついたらもう更年期を迎えるお年頃になっていました。
私もおばちゃんと呼ばれていい年齢に成長してました。(笑)
お人形の顔も、いつの間にかシミが出来ていて、じいっと見つめていたら
「こんなに古くなりましたから、そろそろ、この辺りでお暇を頂きたいです。」
ときこえてきました。人形も引退する時を迎えたようです。
「もう、お雛様をお返ししよう」という気持ちが思い浮かびました。
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人形供養。
人形やぬいぐるみに魂が宿るという話は、怖い話や言い伝えにあるけれど、人の執着やネガティブな念が入った人形たちを清めると考えるよりも、私は人形に子どもを守ってくれるように願いを託してあって、その役割を果たし終えたお人形を、感謝の気持ちを持って人の想いから解放してあげると考えたいです。
「小さかった私も大きくなりましたよ。今までずっと見守っていてくれてありがとう。」
と一体一体にお礼を言って、供養祭に人形たちを持って行ってお別れをして来ました。
人形たちはお寺さんが安らかに自然の世界におくる供養をしてくれるそうです。
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「放てば手にみてり」という言葉が帰る途中、頭の中をリフレインしていました。この言葉は『手放してこそ、手に入ることがある』という意味です。
逆説的だけど、こういう事ってあるね、と思い当たることが多々あります。
手に入れるより、なぜか手放す方がずっと難しいものです。
散々苦心してやっと手に入れたものを手放さないようにギュウと握りしめているより、手放した後の方が握りしめていた手の中に、大切な何かが残ることもあるものです。
または、手放せなかったモノや記憶を手放そうと思えた時こそ、それまでずっと手放せないと思っていた自分の気持ちをリリースできるようになって、そこから自分の気持ちがようやく自由になれることだと思います。
私もこの日、雛人形を手放してみて、自分の成長や無事を願ってくれる人たちの愛情や慈しみに護られて来たんだなぁと感じました。
時にかなって手放せたあと、その余白を埋めるものは、愛であってほしい。
その愛をしっかりと受け入れられる私でありますように。