アニメ「どろろ」感想③手塚治虫の宿題に対して平成版アニメはどういうアンサーを出したのかを読み解いてみるよ、その②

どっから手をつけていいもんやら途方にくれてます。順番的にはどろろと百鬼丸なんでしょうけど、どろろが出す答えに縫の方が絡んでくるのでどうしよう…となってましたけど、メインテーマはこの二人なので、この二人に絞ってまとめていこうと思います。


百鬼丸に背負わされたもの(あるいはまつろわぬものは何をもってしてまつろわぬものとされるのか)


平成〜令和の時代にどろろをリブートするならば、原典どろろを絶対に否定しないといけない部分があります。
「百鬼丸は体に欠損があるから人になれない」という、原典どろろの百鬼丸自身の考えです。こでは今の社会通念には既にそぐわないものになっていますね(現実はどうかはおいておいて、少なくとも建前ではそぐわないものになっています)。

原典の百鬼丸の苦しみをそのままの形でアニメにすることは不可能です。平成版のアニメは、この問題に対して「では、人は何をもってして人となるのか」「人間の社会に入ることができず、その枠組みの外でしか生きていくことを許されないもの、まつろわぬものは、何をもってしてまつろわぬものとなるのか」というテーマを百鬼丸に背負わせることで別角度からこの問題に切り込んでいっています。

提示された答えは、ざっくりいうとこんな感じ。

「自分の体(権利)をひたすらに取り戻したいと願い、そのために鬼神だけでなく人もためらいなく斬り、どんな犠牲も厭わないものに成り下がるのであれば、今度は百鬼丸はその体と引き換えに醍醐の国の安寧が守られているからという理由ではなく(不具という理由はアニメでは表に出せませんからこうなります)、その心の有り様の問題で、共存できないものとみなされまた社会からはじき出されてしまうのだ」

「欠損を持っている、弱者であることを理由に排除・搾取されるものの悲しみ・苦しみ」が、原典どろろの根底に流れるテーマのひとつでした。これに対するアンサーに上記の答えを持ってくるのは私は非常に秀逸だしとても平成らしいと考えています。
「欠損を持っている、もしくは弱者であることを理由に排除・搾取されることは悲しい=だから差別・排除をしてはいけない」というのは、自分が排除する側、マジョリティに立っている側の理屈でもあるんです。
ロスジェネ以降の世代って、いつ自分が貧困層、弱者の側に転がり落ちるかわからない環境の中で暮らしてるんですよね。弱者の側に転がり落ちた時に「あいつらが俺らからあらゆるものを奪ったんだ、奪ったんだからなんでも持ってる連中に復習してなぜ悪い」と社会に対して憎しみを抱けば、いわゆる「無敵の人」が誕生してしまいます。
また、これまでいわゆる弱者と言われてきた人たちを差別・排除してはいけないという常識が広まったことで、今度は差別されてきた側が「これは差別だ」といういわゆる「ポリコレ棍棒」を振り上げて他者を攻撃することも可能になりました。SNS界隈でよく見るのは、とにかく男性が憎くて男性を攻撃するためにフェミニストを自称してる人たちとかかな…。

あとは、直接的には書いてないですけど(放送規制の壁で書くこともできないと思います)、メキシコとアメリカの壁ですね。
手塚治虫が東西冷戦の象徴であったベルリンの壁、板門店をモチーフにした「ばんもんの巻」の壁の印象を比較的薄くして(助六も死にませんでしたし)(子供を直接殺す描写には放送規制がかかったのだと思いますけど)、「醍醐一家が百鬼丸を国に災いをなす鬼と断じて切り捨てる話」にフォーカスしたのは、メキシコとアメリカの壁がどうしてできたかの経緯を調べてみると、ああ、今の世相を反映させたのだなと納得がいくはずです。

百鬼丸が醍醐一家やその家臣の軍をどう見ていたか、なんで百鬼丸が寸前で人の領域に踏みとどまれたのか…の部分は、一番最初の感想で触れたので割愛します。


私はアニメ漫画は社会の問題を先取りするのもその役目だと思うので、「身体障害者やノイジーマイノリティを差別してはいけない」が既に一応表向きの常識として「行き渡っている」時代に、「ではその先には何が起こるのか」を描いても構わないのではないかな、と考えています。
「アニメ漫画で身体障害者やマイノリティを差別する描写がどんどん規制されてる」ってことは社会常識が変わってきてるってことで、「ではまつろわぬものは何をもってしてまつろわぬものとなるのか」というテーマはそれと地続きですし。
原典どろろは昭和の社会問題に切り込んで、平成どろろは原典どろろで手塚治虫が訴えたことが50年経ってある程度社会に浸透し、ではその先に何があるのか??っていうことを先取りして描いてるので、リスペクトあると思いますけどねえ、私は。



どろろは百鬼丸を通して何を見て、何を考えたのか。


「人であるとはどういうことなのか、人とはなんなのか」というテーマを背負った百鬼丸と対になる形で配置されているのがどろろです。
「アニキは体を奪われたことですごく苦労してる、大変な思いをして体を取り返して行ってる」のに、「アニキが家族に切り捨てられて、国のために死ねと言われて」しまうのを目の前で見てしまいます。
そして、その後百鬼丸が「俺の体を取り戻して何が悪い」とひたすらに(周りに甚大な被害が出ることにも一切かまわずに)鬼神と自分を殺そうとしてくる醍醐の国の人間を切り捨てていくのを見て、「このままだとアニキは鬼神になってしまう、どうしたらいいんだ」と葛藤し続ける。
鬼神になった百鬼丸とはもう一緒にいられない(鬼神システムと12番目の狙いを見るに、百鬼丸は人を切り続ければ比喩でなく本当に鬼神になってしまっていたのでしょう)。兄貴をとめたいけれど、アニキが「自分もどろろと同じように、自分の手で触れて自分の目で見たい、それがなぜいけないんだ」と言われると、それを咎めることもできない。なぜならばそれは、「百鬼丸以外の全ての人が願うことが当たり前に許されている(実際に取り返すことができるかどうかは別として、取り戻したいと願う自由は百鬼丸以外の誰もに許されています)」ことだから。どうしてそれを百鬼丸だけが諦めなくてはいけないのか、どろろだって納得できない。そういう葛藤を、どろろは旅の後半にずっと抱え続けることになります。


それと同時に、父親が隠した財宝の地図が自分の背中に書かれていることを知り、父親の財宝にたどりつき、「父親は自分になんらかの願いを託したかったらしい、それは何なのだろう」と考え始めます。原作と違って、アニメのどろろは火袋が何故財宝をためていたのかの理由を知らされていません。(原作では彼女は母から父の願いが何だったかを具体的に聞かされ、さらに最終話で百鬼丸に将来の道を「こうしろ」と一方的に決められた上で置いていかれます。)

自力で答えを導き出すか、それとも他者から決められた、他者の願いを叶えるために生きていくのか。

結果としてどろろがたどりつく結論は平成アニメも原作も同じ「金の力を使い、農民たちが農民のための国(国っていうか、村かな)をつくる」なのですが、その経緯が違ったことにより、百鬼丸とどろろの関係が原作と平成アニメ版とでは大きく違っていくことになります。


どろろが描く未来図


12話では国のため、領主の妻として百鬼丸を切り捨てた縫が、23話で荒廃した国を見て「私たちは間違っていた」という結論を出します。「自分たちは親から餌をもらう雛鳥と同じ、ただ食らっていただけ」というのをもう少し噛み砕くと、
「鬼神の力で疫病が抑えられてちゃ治療法を探そうと必死になって色々な人が努力して治療法を発見してワクチンが生まれたり薬が開発されたりはしない。治水技術を発達させて、日照りが起こっても作物が枯れることがないようにする発想も生まれない。地道でも時間がかかっても、自分たちでコツコツと実績を積み上げて問題を正攻法で解決していくしかないんだ」っていう感じになります。

この寸前で、「百鬼丸をもう一回鬼神に食わせれば醍醐の国は元に戻るんじゃ…」と行った村人にどろろが激怒してつかみかかり、彼女はその姿勢のまま、縫の話を聞いて、「侍や戦に頼って自分たちを守ってもらおうと思ったのがそもそもの間違いだったんだ。欲しいものや守りたいものがあるなら、アニキのように地べた這いつくばってでも自分たちの手で掴まなきゃだめなんだ、そのためには自分たちが力をつけないといけない」という、火袋がたどり着いたものと同じ結論にたどりつきます。(余談ですが、これは侍が発生した理由と割と近いので、元武士だと思われる琵琶丸がその辺をちくっと突っ込みます。それに対してどろろが「心のもちようだ」と返すことで、どろろがそのあたりの問題にもきちんと取り組んでいくつもりであることもきちんと示されます)

火袋と違うのは、「誰かを犠牲にしてつかむ繁栄は結局崩れる時はあっけなく崩れる、だから自力で掴まないと意味がない」という(鬼神に生贄を捧げるという、ある意味反則技である百鬼丸が身近にいたが故の経験なのですが)経験がその答えにたどり着く道のりに含まれていたことですね。


「鬼神に頼って得た繁栄は崩れる時も一瞬で意味がない」
「だから誰もが自分の身を自分で守り、困難を地べたをはいつくばるような努力をして克服していく国を作らなくてはいけない」
「誰もがその身に相応の責任を負い、地道な努力を重ねる社会では、繁栄の対価に誰かを差し出す必要はない」
「だからその国では、百鬼丸もただの人として生きられる、鬼神に体をやる必要なんかない」

誰かから託された答えを鵜呑みにするのではなく、自分で火袋と同じ答えにたどり着くことによって、どろろは「農民が作る農民のための国」に「百鬼丸の居場所」をつくり、「自分たちが作る自分たちのための国はまた、百鬼丸がただの民として当たり前の幸せを願っていい場所だ、だから一緒にそういう国を作ろう、一緒に幸せの国を作ろう」という、原作のどろろがとうとうたどりつくことのできなかった答えを出すことができたわけです。

ただ、これは今から作る国なので、すでに奪われている百鬼丸の残りのパーツ(両手と目)をどろろが彼に返してあげることはできません。しかし、百鬼丸が弟を斬って鬼神になってしまえば、彼はどろろたちが作る国でどろろと共に生きていくことは叶わなくなります。だから彼女は「鬼になるな(弟を切るな)、死ぬな(多宝丸に殺されるな)、手でも目でも鬼神にくれてやれ、おいらが手になってやる、目になってやる(到底足りないのはわかっているけど百鬼丸が足りない部分の補助は自分が一生付き合う)、だから人として一緒に生きよう」と心の中で百鬼丸に呼びかけながら、城に向かって全力疾走するんですね。

問題は!!!!問題はね!!!!最終話、集落にどろろ・百鬼丸・琵琶丸の3人が帰った後で「こういう国をこれから一緒に作ろう」とどろろが百鬼丸に伝えるシーンを!!!あの監督とシリーズ構成担当者が!!!!思いくそカットしやがったことですよ!!!!!!!!!!なんでそこカットした!!!なんでそこカットした!!!!!
(多分尺の都合で他に削れるシーンがなく、重要なのはどろろが自力でその答えにたどりつく縫と村人三人衆とのやり取りの方で、24話でどろろが百鬼丸にその話をするシーンを入れるとテンポが悪くなるからでしょうけど、それにしたって…)



何故百鬼丸は旅に出たのか


百鬼丸が何も言わずに旅立った理由について、ちょっと考えてみます。

どろろは23話である意味成長しきっちゃってるんですよね。で、その後歩いていく道もかちっと決まっちゃってる。醍醐の答えを是とせず、百鬼丸が鬼神になることを是とせず、新しい道を切り開いてるから…。
対比して、百鬼丸はようやくスタート地点に立ったところなんですよ。どろろの示した道を「それはいいね」って賛同して一緒に歩いていくことは簡単なんですけど、それって方向は違えど「鬼神に問題を全部ぶん投げて思考停止してた醍醐」と変わらないわけで…。
どろろが作る国の民として生きるならそれでもいいんですけど、どろろと対等な立場で人生を共にしたいなら、彼は「様々な価値観に触れて、自分の目で見て、頭で考えて」「どろろの考えを自分なりにどう思うか」考えて「納得した上で」どろろのところに帰ってこないといけない、んですよね。

あとは感情とか一切抜きにして、ロジックだけでみれば、23話時点で百鬼丸が選べるルートは2つだったんですよ。

「体を全部取り戻すことを諦めて人としてどろろと生きる」「体を全部取り戻せるけど鬼になり、どろろとは別れることになる」

彼が主体的に選択したのは、残念ながら後者です。
ただし、「多宝丸にも自分と同じ欠けた部分があり、それは百鬼丸が多宝丸から奪ったものだと言われ」「鬼だけでなく自分もまた人から何かを奪うことがあるのだということを知り」「最後の最後でどろろと過ごした記憶が枷となり」「多宝丸も人だと気づき、彼を切らずに済み」「多宝丸が自主的に目を返したことによって」、「鬼にならずに全てのパーツを取り戻すことができた」…という経緯で鬼神ルートをすんでのところで回避することができました。
回避はできましたけど、鬼神ルートを選択したのには違いないので、その対価は払わないといけません。
どろろと生きて行きたければ人として生きていけると確信を持てるところまで心を育てないといけない→自分の進むべき道を見つけて歩き始めたどろろとは別離、コースになる。
メタ的に見れば、自分のやったことに自分で落とし前つけなさいよ、とも言われてる訳で。

それにしたって一言くらいはどろろに挨拶してから旅立てよと視聴者としては思うのですが、何故彼がどろろに何も言わずに旅立ったかの理由は、琵琶丸の言葉をとっかかりに百鬼丸の行動をたどっていくと答えが見えてきます。


ずーっと家族から「お前一人が死ねば国は栄える、だから死ね」と言われてその度に激怒して鬼神への道を転がり落ちてた百鬼丸が、おなじこと言われて動じてない唯一のシーンが、24話の景光との対峙なんですよね。

これ、城が焼けて脱出した直後の百鬼丸だったら「俺の体は俺のものだ」って感じで反発すると思うんですよね。じゃあなんであそこで百鬼丸があんなに落ち着いて「自分は人として生きる、お前も人として生きろ」と醍醐に返すことができたのか。

(アニメ本編ではカットされましたけど!!!!カットされましたけど!!!)
城を脱出してから百鬼丸が地獄堂にいくまでの間に、どろろが「百鬼丸の犠牲なんかいらない国をこれから作る」「百鬼丸もただの人として皆のようにただ生きたいと願っていい国を作る」って未来図を指し示したんですよね。実現は困難だろうけど、それまでの価値観ではとうていありえなかった未来図を描いて見せた。どんな形か見当もつかなかった「百鬼丸が幸せになる国の姿」を。
それが百鬼丸にどれくらいの衝撃を与えたかっていうことを示しているのが、醍醐の理屈(「大衆のためにお前は犠牲となれ」)を突きつけられても、怒りはしたものの、自分は人でいること(景光ではなくその象徴の兜を刺した)を選べたシーンなんです。百鬼丸の価値観の転換はおそらくあの時点で起こっています。
景光ではなく景光を鬼たらしめていたものの象徴(兜)を破壊する。そして「俺のいく道はそっち(鬼)じゃない。俺は人だ」と、彼に告げる。「人として生きることができる。踏みとどまれたのだ」ということを、あの時点でようやく実感できたのではないかな。そして、自分が再び鬼にならないために、人を鬼たらしめるものはなんなのか、ということも、百鬼丸はこれから知っていかないといけないと思った。

百鬼丸はまだ旅をして学ばないといけないことがたくさんあるんです。

でも、どろろは違います。

火袋の遺言に自力でたどり着き、さらにその中に「百鬼丸の幸せ」を当たり前のように織り込んで、「百鬼丸とどろろがみんなと幸せになるための国」を作り始めることを彼女は選んだ。他ならぬ自分のために定住することをどろろは選んだのだから、百鬼丸と彼女は一度は必ず別れないといけないんですね。

けど、ですよ。

今まで散々大衆を救うために死ね死ねと言われてて、ボロボロになってた百鬼丸の心を「そもそもの社会インフラから変えるから一緒に生きていこう」って形で肯定したどろろに、醍醐との対峙の後で会っちゃうとね、そのあと「鬼から人になるために、どろろから一旦離れて旅に出る」ことが、あの時点の人として生まれたばかりの百鬼丸にできるかっていうと…普通に考えて無理だよね…っていう。

会いたくなかった訳じゃなくて、今顔見ちゃうと二度と手放せなくなることが分かったから、顔見ずに旅立ったって考えると割と綺麗に繋がるんですよね……。


まあ、だから、あの世界線の百鬼丸は必ずどろろのところに帰ってくるだろうし、帰ってきたらどろろを絶対に離さないと思うんですよね…。

この辺、読み解いていくとどろろが百鬼丸を頼ってるように見えて百鬼丸の方がどろろなしでは生きていけない沼に丁寧に叩き落とされ、最後の最後で沼の一番底に沈められてて笑いますね…。23話まで闇落ち寸前の沼だったのに、最後に今度は光の沼に深く沈められてるあたりひどい、本当にひどい。

追記:そういやどろろが「ほしいもんがあるなら~略~地べた這いつくばってでも~アニキみたいに」って言ってるの、百鬼丸の何を言われても絶対に体を取り返すという意志の強さはつまり、「(人としてその力を振るうのであれば)虐げられてきたが故に諦めも早い自分達が国を興すために必要だ」ってことなわけですよね。使いかたを謝ると危険な百鬼丸の意志の強さと力は、これからの自分達に必要なものだって気がついてるのでどろろ本当にパーフェクトな答えを出してますね、新しい国での百鬼丸の役目(他の誰も代替できない)まで用意してる。
その力を正しく振るう、正しい心持ちも手に入れないといけないわけでやっぱり百鬼丸は旅に出ないといけないんですね。
 これまで周囲から様々な理由で咎めら、否定されるばかりだった百鬼丸の意思の力や生きようとする力も、「正しい心で振るわれるならそれはこれからの自分達に欠かせないものだ」って、どろろ、すごい角度からこれまでの百鬼丸肯定してません??
 それを行間でカットされてしまったシーンで、「きれい」などろろから伝えられた百鬼丸の心情たるや…??光の沼に叩き落とされた上にだめ押しの重りまでつけられてますね??? 一生光のどろろ沼から出てこられない上にもう絶対に闇落ちもできないやつですね???
 でも要求レベルが無茶苦茶たかいやつ。
しかし「アニキならそれができるに違いない」とどろろが信頼を寄せてくれるなら、それに百鬼丸が答えないわけにはいきませんし、醍醐景光のことを許す余裕もできるわけですね。


各キャラクターの結末自体は同じという形で「どろろ」を手塚治虫のところに返したのに、まあ、よくもこんな綺麗な形で手塚治虫の残した宿題に答えたなあ、というのが私の感想です。ほんと、どんな頭してたらこんなこと思いつくんでしょうね…。

縫とか多宝丸とか寿海とかについてもうちょっと言及しておきたいので、まだもうちょっと記事は続きます。長いよ。


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