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#10分で読める小説「生絞りオレンジ自販機から広がる、失われた夢の香り」

駅構内には、甘いオレンジの香りが漂っていた。9月、早朝の少しひんやりとした空気の中、その香りだけがほんの少しだけ暖かさを与えていた。自動販売機が忙しなく通り過ぎる人々の視界に入るたび、誰もが一瞬だけ足を止め、そのフレッシュなオレンジジュースがカップに注がれるまでの過程を眺めていた。40秒足らずでオレンジがカットされ、搾られ、カップに注がれていくその瞬間は、小さなショーのようでもあった。

北村清一は、そんなオレンジジュース自動販売機の作業員だ。彼の仕事は、この機械から排出されるオレンジの皮を回収し、機械を清掃すること。日々、同じ作業を繰り返していたが、誰かがこの仕事をしていることを知る人はほとんどいない。ジュースを楽しむ人々にとって、自動販売機が絞りたてのオレンジを提供してくれるのは当然のことに過ぎなかった。

彼の背筋は少し曲がり、50歳を超えた今、手のひらには長年の労働によって刻まれた無数のしわが深く刻まれている。駅の構内で働く清一の姿を、ほとんどの人は気にも留めない。しかし、彼にとってこのオレンジの自動販売機は、ただの機械ではなかった。

彼の育ちは、四国の小さなみかん農家だ。父と母、そして兄弟たちと一緒に、山あいの畑でみかんを育てていた。みかんは清一の家族の誇りであり、父はいつも「みかんは自然の恵みそのものだ」と話していた。清一は幼いころから、みかんの木々を見守り、土を耕し、収穫の喜びを味わっていた。しかし、時が流れ、清一の家族は次々とみかん畑を離れ、父が亡くなった後、畑は放棄されてしまった。彼自身も家業を継ぐことはなく、東京に出て働くことになった。

東京に出てからの生活は、彼にとって厳しいものだった。工事現場や飲食店、配送業務と、様々な職を転々としたが、どれも長続きしなかった。みかんの香りに囲まれて育った田舎とは異なる都会の冷たさに、次第に心が磨り減っていった。そんな時、駅の構内で見つけたオレンジの自動販売機が、彼を引き寄せた。

「みかんじゃなく、オレンジか…」最初はただ通り過ぎるだけだった。しかし、その香りが彼の記憶の奥深くに眠る故郷のみかん畑を思い起こさせた。ある日、自販機の管理者に声をかけられた時、清一は迷わず作業員の仕事を引き受けた。機械から放出されるオレンジの皮を回収し、清掃を行う。ただそれだけの仕事だったが、清一にとってそれは特別な意味を持っていた。

オレンジの皮に触れるたび、彼は父の言葉を思い出した。「みかんには、人を幸せにする力があるんだ」と。父が教えてくれたその言葉は、みかん農家であった清一の心の奥に根付いていた。しかし、父の死後、彼はその言葉を無視していた。自分には何もできない、何も成し遂げられないと感じ、夢も希望も捨て去っていた。

駅構内での仕事は単調だったが、オレンジの香りが漂うたび、清一の胸には小さな灯がともった。それは彼が忘れていたみかんへの愛情と、父との思い出が呼び起こされる瞬間だった。彼は毎日、オレンジの皮を丁寧に回収し、機械を磨き、ジュースがスムーズに出るように整備を続けた。時に、オレンジの皮を手に取ってじっと見つめることもあった。そこにはみかんとは少し違う、しかし同じ柑橘系の甘い香りが広がっていた。

ある日、清一がいつものように作業をしていると、一人の若い女性が自動販売機の前で立ち止まっていた。彼女はジュースが作られる様子をじっと見つめ、その香りを嗅ぎながら微笑んでいた。ジュースが注がれると、彼女は一口飲み、満足そうに小さく頷いた。

その光景を見た清一は、心の中でそっと何かが崩れるのを感じた。自分の人生は、みかん農家としての誇りも夢も捨て去ったものだったと思っていた。しかし、このオレンジのジュースが誰かに喜びを与えること、それが今の自分の仕事であることに、初めて深い意味を感じた。

ジュースを飲み終えたその女性が、ふと清一の方を見て微笑みかけた。「おいしかったです」と、彼女は小さな声で言った。その言葉は、清一の胸に直接響いた。みかん農家としての自分の人生が、たとえ形を変えたとしても、誰かに喜びを与えているのだと思うと、清一の目頭が熱くなった。

その夜、清一は帰宅すると、しばらくしまいこんでいた父の写真を手に取った。父の笑顔がそこにあった。「ごめんよ、親父。俺は逃げてばかりだった。でも、今はわかるよ。みかんもオレンジも、俺にとっては同じなんだ。香りも、味も、幸せを届ける力も」

彼は久しぶりに涙を流した。みかん畑を守りたかった若き日の自分と、都会で泥臭い仕事をしている今の自分が、どこかで繋がっていたことに気づいたからだ。自分の人生は失敗ばかりではなかった。みかんの香りが、オレンジの香りとなり、そしてまた人々に笑顔を与える。それが彼の使命だったのだ。

次の日、清一はいつも通り駅に立ち、オレンジの皮を回収し続けた。しかし、彼の胸には新たな誇りが宿っていた。自分の仕事が誰かの一日を少しでも明るくするなら、それでいい。父が教えてくれた「みかんの力」を信じながら、清一は静かに微笑み、今日もオレンジの香りに包まれた駅構内を見渡していた。


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