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#10分で読める小説「カツ丼に憑りつかれた丸の内美人OL」

彼女は、いつだってカツ丼を愛していた。幼少期、父親が家でよく読んでいた『クッキングパパ』に出てきた「カツ丼は下品な食べ物、それが最高!」という言葉が忘れられない。それを目にした瞬間から、カツ丼は彼女にとって特別な存在となった。黄金色に揚がったカツが、ほんのりとした甘さと塩気の効いたタレにまみれ、ふわっととじられた卵が優しく包むその一皿。ご飯にじんわりとタレと卵が染み込みながら、カツのわずかに残ったサクッと感が時折口の中で主張する。彼女はその絶妙なバランスに、心の底から魅了されたのだ。

カツ丼は単なる食事ではなかった。彼女にとっては、人生を彩る瞬間を詰め込んだ宝物のような存在だった。中学生の頃、友達が放課後に恋バナで盛り上がる一方で、彼女は一人、新しいカツ丼店の開拓に余念がなかった。彼女の心の中で、初恋さえもカツ丼に比べると味気ないものに感じられた。恋愛の駆け引きや、ときめきよりも、卵でとじられたカツ丼が目の前に置かれた瞬間のほうがずっと鮮やかで、心が躍った。大学に入っても彼女のカツ丼への愛は変わらなかった。オシャレなカフェで友達がヘルシーなランチを楽しむ中、彼女はひっそりとカツ丼を求めて街を歩いていた。たまにはパスタやサラダを手に取ってみることもあったが、心の中でいつもカツ丼が彼女を呼んでいた。そして、結局カツ丼の誘惑には勝てず、こっそりとその熱々の丼を前に座ることになる。

社会人になってからも、カツ丼への情熱は揺るがなかった。彼女は丸の内の大手商社で働くOLとして、周りの男性社員からよく声をかけられていた。細身で色白、黒髪の彼女は、周囲の目を引く存在だった。しかし、彼女にとって男性よりもはるかに重要なものがあった。それが、カツ丼だ。ランチタイムになると、周りの女子社員たちは「今日はヘルシーにパスタがいいかな」や「スープランチがオシャレだよね」と言いながらオシャレなレストランに向かう。しかし、彼女の頭の中はいつもカツ丼でいっぱいだった。丸の内という華やかな街の真ん中で、彼女はひっそりと自分の愛するカツ丼屋を見つけ、通っていた。そこで彼女が求めるのは、卵でふんわりととじられた、昔ながらのカツ丼だった。

彼女が行きつけにしているのは、路地裏にひっそりと佇む古びた定食屋だった。そこは、木の壁に油が染みつき、テーブルや椅子も年季が入っている。そんな雰囲気が逆に彼女には心地よかった。そこには、流行りのメニューもなければ、余計な飾りもない。ただ、シンプルで力強いカツ丼があるだけだ。彼女はその店でいつも「カツ丼大盛り」を頼んでいた。そして、そのカツ丼がテーブルに運ばれてくるたびに、彼女の心は躍る。黄金色に揚がったカツが、ふわっと卵に包まれ、ご飯の上に鎮座している。その見た目だけで、今日もこの一皿が彼女の心を満たしてくれることが確信できた。

カツ丼の一番の魅力は、卵とじの中にわずかに残るカツのサクッとした感触だった。卵とタレが絡み合い、ご飯にその旨味が染み渡りながら、カツのサクッとした部分が口の中で軽く弾ける。その瞬間に、彼女はいつも至福を感じた。カツのジュワッとした肉汁と、ふんわりとした卵のバランスが絶妙で、何度食べても飽きることはなかった。

午後2時4分。彼女はフレックスタイム制を利用して、サラリーマンたちがランチを終えて職場に戻った後、静かな時間にカツ丼を楽しんでいた。店内には彼女一人だけ。古びたテレビからは、ワイドショーの政治家の謝罪会見が流れていたが、彼女はそれをぼんやりと眺めていた。この静かな時間が、彼女にとって何よりも大切だった。カツ丼と向き合うその瞬間、彼女は日常の喧騒から解放され、自分自身に戻ることができるのだ。どんなに忙しい日でも、どんなにストレスの多い日でも、カツ丼は彼女に安らぎを与えてくれた。カツ丼は彼女にとって、ただの食べ物ではなく、自分を取り戻すための「儀式」のようなものだった。

彼女には、以前付き合っていた男性がいた。その彼は、彼女のカツ丼愛に呆れ、「お前、会話がカツ丼ばっかだな」と言って別れを告げた。彼が先に告白してきたのにもかかわらず、彼女はその時、驚きもせずただ心の中で「カツ丼は裏切らない」と静かに呟いた。彼氏よりもカツ丼を選んだ日もあった。恋愛よりも、彼女にとってカツ丼は確実な幸福感をもたらしてくれる存在だったのだ。カツ丼は彼女を裏切らない。毎回、確実に美味しさを与えてくれるその信頼感は、何物にも代えがたい。

休日になると、彼女はカツ丼の名店を巡るのが習慣だった。情報源はX(旧Twitter)。彼女が検索するキーワードは「昔ながら」「定番」「老舗」「地元の」。その検索結果を頼りに、彼女は全国のカツ丼店を巡っていた。おしゃれなカフェ風のカツ丼店には全く興味がなかった。特に、緑の葉っぱが乗った「おしゃれなカツ丼」など、彼女にとっては邪道でしかなかった。「カツ丼にそんなものは必要ない」と彼女は心の中で呟く。カツ丼は、シンプルでありながらも深い味わいを持つ、まさに「無駄のない一皿」だからこそ美しいのだ。

今日も、彼女はカツ丼を食らう。いつものように「カツ丼大盛り」を注文するが、今日はなぜかその一杯が特別に感じる。香ばしいカツの匂いが立ち上り、彼女の胸が少しだけ高鳴った。店内は静かで、いつものように彼女一人きり。熱々のカツ丼が目の前に置かれた瞬間、彼女の目が輝く。カツの衣は卵でしっとりと包まれているが、まだわずかにサクッとした感触が残っている。それが、彼女にとってはたまらなく魅力的だった。

箸を持ち、彼女は一口、カツを口に運ぶ。卵とじがカツを包み込むその柔らかな食感と、ほんの少し残ったサクサク感が見事に調和している。ジュワっとした肉汁とふんわりとした卵、そして甘辛いタレのハーモニーが彼女の口の中で広がる。その一口ごとに、彼女は至福を感じる。食べ進めるにつれて、残り少なくなったご飯とカツ。この「喜ばしい状況」に、彼女はクッキングパパの教えを思い出し、心の中で微笑む。そして、彼女は満足げに一息つく。今日もカツ丼は、彼女を裏切らなかった。さて、今夜はどんなカツ丼を調べようか。


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