読書メモ 南 博著「意識革命」
読書メモを始める事にする。
誰かに読んでもらうためというよりも、自分の備忘録的な目的なので、乱文はご容赦頂きたい。一回目は、南 博著「意識革命」について書いてみる。たまたま以前に買って、さらっと一読したまま、放置し、いわゆる、「積ん読」状態だった本だ。なんとなく、タイトルが目に入り、再読してみることとした。
「意識革命」は1965年2月の出版である。随分古い。今から約60年前である。著者は、一橋大学教授で、日本で社会心理学の分野を確立された方のようである。
本書の主張はシンプルである。「人間が生きがいを得るためには、もっと遊ぶべきだ」というものである。日本の過去の歴史を振り返り、明治以降の急激な近代化の要請の中で、「とにかく勤勉に働く」という事が重要視され、戦後でもアメリカの物質重視の価値観の中で、「働く事」が優先され、休日は「憂さ晴らし、疲労回復」程度にしか使えていないのではないか、という点を指摘している。
そもそも、この働く事を最優先してしまう価値観がどこから来るのか。実は、キリスト教や仏教の考え方、そして、為政者が統治をスムーズにするための方便として、労働を美化する価値観が形成されている点を論じている。(本書では触れていないが、日本だと江戸時代の石田梅岩の考え方も関連していると思われる)
そして、著者は、理想の遊びのあり方として、16世紀―17世紀のイタリア修道僧、トマソ・カンパネラが書いた『太陽の都』の記述から理想の姿を定義しようとしている。
以下、引用。
「公職・技芸・労働・手伝いなどは、誰しも平等に配分せられ、各人は日に四時間以上働かないですみ、あとの時間は愉快に勉学し、討論し、あるいは独唱をしたり、聞いたり、書きものをし、散歩し、心身を鍛える運動その他のことをしますが、これがすべて楽しい仕事なのです。」
南氏によると理想の余暇とは、「芸術のための芸術」、「釣りのための釣り」というようなもので、「とにかく釣りそのものが好きでたまらない」というのが理想であり、従って、釣れた魚の自慢をしたり、道具にこだわったりという事ではないのだ、と言っている。
中国の思想家の荘子の「逍遥として遊ぶ」という考え方を紹介し、「自由自在に周囲にとらわれずに生きていく」、「無心」「無為」で生きていくことを推奨している
本書の最後には、具体的な余暇の例として、スポーツ(型の完成)、芸術、歓談・おじゃべり、性愛、旅行などにそれぞれ節をあてて、余暇の過ごし方を推奨している。
読んでみて感じた事としては、以下の通りだ。
60年近く前に書かれているにも関わらず、古さを感じない本である。最近のワークシェアリングとか、フリーランスエコノミー的な文脈でいうと、仕事=辛いものではなく、仕事=自分の好きな範囲でやる事だったり、仕事=楽しむもの、だったりという事で、60年前の本書の価値観に近づいてきているのかなという気がする。
一方で、僕自身に当てはめて考えてみると、社長業をしている事もあり、忙しく、平日の夜ともなると、疲れ果ててしまいがちで、余暇をする余裕は、時間的にも精神的にも無くなってしまっている。そして、恥ずかしながら、疲労やストレスを暴飲暴食で解消し(結局、睡眠が浅くなるので、疲れを残してしまうのだが、、)、土日に疲れを持ち越して、週末は寝て過ごすという、典型的なダメな例をしてしまっているなぁという反省につながった。
今は、社長の職務とは別に、営業責任者も兼ねていて、お客様との商談を日に2件、3件と行う日々である。お会いするお客様には、せっかくなので、「話して良かった」と思ってもらいたいという想いもあり、毎回全力でアドバイスしている。と同時に、商談は、自分の話をするだけではなく、お客様の話を聞かないといけないし、それ以上に、お客様の表情、仕草などにも気を配らないといけない。今ならオンラインですから、ささいな声のトーンや間などが重要になる。営業職の人はわかると思うが、営業の現場は、緊張の連続で、割と疲れる。多分、アドレナリンが出て、緊張状態が続くのだと思う。
本書を読んで、「営業はこういうものだ」、「社長業だし仕方がない」と諦めてしまっていた自分に気づいた。改めて、自分の仕事を見直し、もう一段の効率化を工夫していきたいと思う。
昔読んだ、ティム・フェリスの「週4時間だけ働く」や、「7つの習慣」の緊急重要マトリックスなど、改めて試してみようかとも思った。
では、読書メモの1回目、終わり。すごく私的なメモなので、他の人の役に立つとも思えないけれど、しばらく続けてみようと思っている。
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