7月5日 フリーランス家政婦
出産間近の従妹と暮らしていた。里帰り出産を望んだ従妹だったが、母親とその旦那さんとの歯車が上手く噛み合わずにストレスを抱え、産院が近いこともあって私の実家で一緒に暮らすことになった。私は休職中で身軽なため、従妹を病院に連れて行ったり、掃除をしたり、ごはんを作ったりすることができた。10時間の死闘の末に生まれた赤ちゃんを抱かせてもらったとき、両腕と肩に2968g以上の重みがずっしりときた。従妹は、今まで見たことがないような表情で赤ちゃんのほっぺに触れていた。慈愛に満ちた、という表現はこのときのためにあるのだろう。
従妹が帰った数日後、今度は姉の妊娠が発覚した。日本の北端に届くささやかなベビーラッシュの報せ。その後まもなく、つわりがひどいし、精神的にも不安定だからこっちに来てほしい、と姉からLINEが来た。日中は本を読み、散歩をし、体を鍛え、日が暮れる頃には家族分の夕飯を作るというルーティンに飽き始めていた私は、このSOSを受けて、姉夫婦の住む栃木へ行くことにした。
「お世話になったよ。今度はおねえか、おめでたいね。栃木に行くの、フリーランスの家政婦みたいだね。」
姉の妊娠の連絡が行ったのだろう、従妹からこんな冗談めかしたLINEが来た。フリーランス家政婦かぁ、身軽な今にはぴったりの肩書きだなぁ、と笑いながら、「もっと褒めろ」とリスがいっているスタンプを返す。
栃木行きの荷造りをするさなか、天気予報を調べると、私の実家に比べて栃木県の気温はおよそ10℃ほど高かった。げ、と思ったが、なにぶん私には、過去に盛岡の盆地で暮らしていたぞ、という自負がある。湿度の高い夏に耐えられぬことはないだろう。同じく盛岡に住んでいたことのある姉の旦那さんに、これからお世話になります、本州の夏は経験済みですのでご心配なく…、とLINEを送ると、「こっちにくらべりゃ盛岡は涼しいからね…」と返事が来た。げ、と思ったが、「フリーランス家政婦に二言はなし」といういにしえの格言を思い起こし、飛行機のチケットを引っ掴んで空港行きのバスに乗る。
空港の待合室で旅程の再確認をしていると、すぐに搭乗時刻がやってきた。このご時世、機内には人はまばらで、出張とおぼしきサラリーマンの姿が目立った。座席背面のポケットに挟み込んである旅行雑誌を、ぱらぱらとめくったりする。どうしても消えない感情が頭にある。従妹を見ていても感じていたが、妊娠、という単語には、少し居心地の悪さを感じている。仕事を通じて言われた言葉たちが、飛行機の上昇音とともに立ち上ってくる。
「産めるというのは素晴らしいことなんですから、あなたもぜひ産んでください。」
「子どもは若いうちにたくさん産んでもらわなきゃね。」
子煩悩の仕事相手と、職場の上司から言われたものだ。グロい言葉を浴びせられたなぁと思う。十月十日、日々変化していく身体に対して、ずっと子どもができた幸せだけを抱き続けられる女性なんているんだろうか。性別が男と女という二分化のみで語られることってグロテスクだなぁ、と思う。体が女だからって、勝手に役割を押し付けて来る人がいる。私にはそれが苦しくてたまらない。
姉は大丈夫なんだろうか。子どもの頃から、人一倍繊細で、生きている人間や、その生活が放つ毒にすぐにやられてしまい、休み休みじゃないと生きていけないような人。姉は母親という役割と、それに伴う痛みに耐えられるんだろうか。妊娠したことを恨んだり、後悔してないだろうか。報せを受けて、最初に思いをめぐらせたことだった。
宇都宮駅に着いたら迎えに行くね、と姉から連絡を受けていたが、どうやら体調が悪いらしい。あらかじめ教えてもらった住所を頼りにタクシーで姉夫婦のアパートに向かうことにした。タクシー乗り場へ行くために駅の構内を抜けて外に出ると、むっとした熱気を帯びる湿度が体中にまとわりついてくる。3年ぶりの本州の暑さ、不快と言われるはずの梅雨時の天気に、懐かしさを覚える。道東の気温18℃の空気で縮こまっていた体が、30℃の世界にほぐれていく。
乗り込んだタクシーの車窓からは、歴史を感じる瓦屋根や、狭い小道にひしめきあう住宅が流れていく。北海道じゃ見られない景色に、遠いところにきたんだな、と実感して少し心細くなった。若いタクシードライバーは、運転中にスマホでGoogleマップを駆使しており、私と同じくまだこの街には不慣れなんだろうと勝手に親近感を抱いた。大通りを一本入った小道を右折すると、蔦が絡まる自動販売機と、バーバーササキと看板が立てられた古い美容室があり、その先に目的のアパートがあった。
日があまり差し込まないアパートの、螺旋状の階段を登って息が切れる。姉夫婦の部屋の前に着くといたずら心が湧いた。よく知る友達か、よく知らない不審者の二択を迫るため、着きましたよと連絡もせぬまま呼び鈴をしつこく3回鳴らすと、割合ためらう様子のない解錠の音が聞こえ、姉の顔がドアから覗いた。
「よかったぁ、具合悪くてさ、一人で不安で死んじゃうかと思ったぁ」
記憶よりも少し痩せた姉が、子どものように半べそをかきながら立っていた。
姉は子どもの頃から、守るべき存在として私の中にある。大丈夫、妊娠時にだめな食べてはいけないものや、つわりのときに食べやすい献立は頭に叩き込んできた。埃っぽいお部屋も、溜まっている洗濯物もすべて私に任せてくれ。
半ニート、家政婦への転身。