きたないもの
会社の帰りに立ち食いそば屋でわかめうどんを食べていたら、隣の男に声をかけられた。「け」を売れと言う。
「け?」
意味がわからずそう聞きかえした。男の前のどんぶりは汁まできれいに飲み干されて空っぽで、何を食べていたのかわからない。
どうやら「け」というのは「髪の毛」のことらしい。なるほどと思った。男の頭頂部は細い毛が申し訳程度にしかなく、それに反してサイドはぼっこり出っ張って見苦しいことこの上なかった。
髪が薄いから毛を売れというのは理解できたが、気味が悪いので、知らん顔をして、わかめうどんを急いでかきこんで店を出た。
すると男が追いかけてきた。
「頭に生えている毛を売れというわけじゃないんです。ベッドの上とか、床に落ちている抜け毛でけっこうなんで、何とかなりませんか」
男は執拗に食い下がって来た。いくら早足で歩いても、一本いくら出すとかひっきりなしに話しかけてくる。無視を決め込んで歩き続けているうちに、とうとうマンションに着いてしまった。
少し迷ったが、面倒になって男を部屋に入れることにした。恋人と別れたばかりで正直さみしくもあったのだ。
「なんで、あたしなんですか?」
部屋に入るなりつめよってやると、
「え? 女」
男は驚いた顔であたしを見た。男と思っていたようだ。つい最近、髪をショートにしたばかりだ。切る前は、背中まで届くロングだった。
「女じゃだめなんですか?」
「いや、そういうわけじゃ」
男は言いながら、さっそくコロコロを取り出してベッドの上とか床とかの抜け毛を集め始めた。
「そんな、まどろっこしい。ほら、これあげるから」
あたしは、クローゼットの中からスーパーの袋を取り出して男に渡した。先週、恋人にふられて酔った勢いで自分で切った髪が入っている。髪の手入れにはすごくお金と手間をかけていた。初対面の男にはまっさきに髪をほめられた。そのせいか、どうしても捨てることができなかったのだ。
「ひゃっ」
男は中を見るなり、気味悪そうに袋を投げだした。
売ってくれって頼んどいて、何なのその態度、まるで汚いものみたいに。怒りがこみあげ、叩きつけてやろうと、袋の中の髪に触れたとたん、ぞっとして、袋を床に落としてしまった。
床に散らばった髪は、ただのゴミにしか見えなかった。切る前と何も変わらず、つややかで美しいのに、あれほど丁寧にいつくしんで手入れをしていた自分の髪が、なぜ、それほど汚らしく映るのか、あたしには、どうしてもわからなかった。
(了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?