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完璧な彼女

 彼女がぼくの部署に派遣社員として配属されてきた日、まず目についたのは、その美しい容姿よりもむしろ、彼女が体を支えている銀色の杖だった。
「川瀬理紗子と申します。よろしくお願いいたします」
 ただお辞儀をするだけでも体が大きく揺らぎ、長い髪がざっと散って甘い香りが漂った。席に案内すると、椅子の背もたれに手をついて、右足から滑りこむように腰をおろした。それだけの動作がひどく大変そうだった。右足が不自由なのだ。
 課長からあらかじめ聞かされていたとおり、彼女は優秀だった。どんな作業を頼んでも迅速な上に正確だった。完璧と言っても過言ではなかった。ただ、ぼくがその仕事ぶりを絶賛しても、彼女はあまりうれしそうではなく、黙って口元をゆるめて視線をそらせるだけだった。初めは照れているのかと思ったが、どうもそうではないようで、ほめられることに居心地の悪さを感じているように見えた。ある日、彼女をほめているときに周囲の女子社員が放つ冷たい空気に気づき、少しうんざりした。女子社員同士のその手の確執にはこれまで何度も悩まされてきたからだ。
 完璧だった彼女の仕事にささいなミスが目立つようになったのはそれからだ。ミスとはいっても、単純な誤字や脱字という類の、笑ってすませられるものばかりなので、彼女に対する評価は揺らぐことはなかった。むしろ、完璧すぎて多少うちとけづらかった彼女に親しみさえ感じるようになった。事実、ぼくが彼女のミスを冗談めかして指摘するようになってから、冷ややかだった他の女子たちの態度が明らかに軟化してきたのだ。彼女のささいなミスが女子たちの心の壁を崩す役目を果たしたようだった。彼女らが誘いあって一緒にランチに行く仲になるのに時間はかからなかった。ぼくはほっとしながら、ふと、いつだったか美術館で見た絵画のことを思い出した。巨大な真っ白いカンバスに、よほど目をこらさないと気づかないほど小さな黒い染みがひとつ描かれているだけの作品だった。「完璧な白は許されない」。それが絵のタイトルだった。
 完璧というなら、彼女の容姿もまさにそうだった。女優のように美しい小顔に、申し分のないプロポーションとスタイル。女性であれば誰もが憧れる外見を彼女は持ち合わせていた。ただひとつ、不自由な右足をのぞいて。
 もしも彼女の右足が健常だったとすれば、別の意味で、他の女子たちの妬みの対象となっていただろう。杖で体を支え、上半身を揺らしながらオフィスを歩く彼女を目にするたびにそんな思いが胸をよぎった。彼女の右足は真っ白いカンバスの一点の黒い染みなのかもしれなかった。
 彼女が配属されてひと月ほどたったある金曜日、定時をすぎ閑散としたオフィスで彼女は残って作業を続けていた。続きは週明けでかまわないと言っても、彼女は今日中に片づけてしまいたいからと帰ろうとしなかった。ぼくはあきらめて先にオフィスを出た。
 ビルを出たところで、財布をデスクの上に忘れたことに気づき、すぐに引き返した。がらんとしたオフィスに彼女の姿はなかった。トイレにでも行ったのだろうと特に気にもせずに、財布をポケットに入れたところで、ぼくは愕然とした。その助けなしに彼女は一歩も歩けないはずの銀色の杖が、デスクに立てかけられたままになっていたのだ。あわてて周囲を見回したちょうどそのとき、オフィスのドアが開き、ペットボトルを手にした女性が現れた。茶色がかった長い髪に整った顔立ち。紛れもない彼女だ。ぼくが知っている彼女と違うのは、杖なしで軽やかな足取りで歩いていることだけだ。丸太のように伸びきっているはずの右足はなめらかに曲がり、大きく揺らいでいた上半身は微動だにせず、湖面をすべるように泳ぐ白鳥を思わせるその姿は美しくまさに完璧だった。席のすぐ手前まで来てから初めてぼくに気づいた彼女は一瞬ぎくりと足を止め視線をそらせたが、すぐに開き直ったようにペットボトルをデスクに置くと、ぼくを見た。その顔は紙のように白かった。
「おわかりですよね、完璧って、許されないんですよ」
 つぶやくように言うと、いつものように椅子の背に手をついて、大きく体を揺らして右足から滑りこむように席についた。     

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