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赤い傘

 翌日のオーディションの準備を終えて寝ようとしたところで、玄関にたてかけたままの赤い傘のことを思い出す。干そうと広げてみたところで初めて気づいた。海外のブランドの限定品で驚くほど高価なものだ。オーディションに備えてカットに行った美容院で手に入れたのだ。会計を終えて店を出ようとしたら雨が降っていた。カットしたばかりの髪が濡れるのが嫌でしばらく待っていたがやみそうにない。あきらめて濡れて帰ろうとしたとき、レジの横の傘立てに一本だけ立ててあった赤い傘が目に入った。少し迷ったあと、あたしはできるだけ自然な風を装ってその傘を手にして店を出た。こういう場合はびくびくするとかえって怪しまれる。この傘は自分のものだと心の底から思いこむのだ。そうすれば誰も気づかない。あたしは仮にも女優のはしくれだ。この程度の演技はお手の物だ。
 その次の日も雨だった。あたしは自分の傘ではなく、赤い傘をさしてオーディション会場に向かった。今回のオーディションはかなり重要な役柄で、絶対に取りたかった。高い美容室でカットをし、洋服も自分が持っている中で最高のものを身につけた。どうせなら傘も最高にしたかった。少しでも自分の状態を最高に近づけたかったのだ。あらためて手にしてみると、やはり高級品らしく手触りも見た目も自分の安物とは根本的に違っていた。鮮やかな赤は目に染みるように美しく、石突がすこしつぶれている他は目だった汚れもなく、あたしはすっかり気に入ってしまった。
 赤い傘のおかげで気分よく臨めたのが功を奏したのか、数日後、オーディション合格の知らせが来た。それ以来、あたしは仕事には必ず赤い傘をさして行くようになった。日傘兼用なのでもちろん晴れの日もだ。ときおり、めざとい女優仲間や事務所の女の子に気づかれて、「これすごい高いやつだよね。まさか自分で買ったんじゃないよね」と、からかわれることもあるがそういう場合の答えも用意してあった。一年前に別れた恋人に誕生日のプレゼントでもらった。必ずそう答えることにしていた。値段が値段なだけに持ち主が警察に届け、盗難事件として捜査されているかもしれない。が、この傘の本当の持ち主はあたし。そう思いこんでさえいればだいじょうぶだ。あたしの演技を見抜ける人などいない。
 赤い傘をさして出かけるようになってから、体調もよく、いらだったり落ち込んだりすることもなく、いつも明るい気持ちで過ごせるようになった。その上、不思議なくらい順調に仕事が入ってくるようになった。まさに幸運の傘だった。
 ある日、あたしは控室で、初めての主演映画の撮影を待ちながら、ゆっくり紅茶を飲んでいた。赤い傘を手に入れてからまだ三か月しかたっていない。まるで夢のようだった。さすがに少し不安もあったが、赤い傘の柄をなでると気持ちは落ち着いた。この傘がある限りあたしは大丈夫。何せ、幸運の傘なんだから。
 紅茶を飲み終えた頃、ドアが開いてマネージャーが顔をのぞかせた。後ろに見知らぬ男が二人立っている。警察の人だと直感した。ついに来たか。
 案の定、男たちは赤い傘の入手経路について尋ねてきたので用意していた通りに応えた。さらにしつこく、なくしたり、誰かに貸したりしたことはないか聞かれたので、一切ありません、と自信を持って答えた。男たちはしばらく何かひそひそ話していたかと思うと、一人があたしに、署に同行するように言った。一瞬ひるんだが、この傘は一年前からあたしのもの。そう言い聞かせると気持ちはすぐに静まった。
「なぜですか。この傘はあたしのものです。間違いありません。なくしたり誰かに貸したこともありません」我ながら完璧な演技だった。
「だから、同行いただきたいんですよ」男の一人があたしの前に立ちふさがった。「神作陽子さん殺人事件の重要参考人としてね。やっと凶器の傘の商品名が特定できましてね」
 一瞬真っ白になったあたしの脳裏に半年ほど前に見たニュース映像が浮かんだ。なぜ覚えていたかと言うと、あたしは神作陽子さんを知っていたからだ。あたしと同じ駆け出しの女優で何度か顔を合わせたこともある。そう、確か「傘のようなものでメッタ刺しにされて」殺されたのだ。男の一人が傘を手にして石突を食い入るように見つめている。もっと早く気づくべきだった。石突はよほど強い力で叩きつけないかぎりあんなつぶれ方はしない。それにあの鮮やかすぎる赤の色。どうみても血の色にしか見えないじゃない。 

(了)

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