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イエローマンデー  ~ Episode Ⅳ  つり橋 鳥居 菊花亭 ~

 しばらく清流や周囲の山なみを眺めたりしていた安井さんが、ふと何かを見つけたように崖にそって歩き始めました。先につり橋が見え、その手前に看板が立っています。もともと白地だったと思われる看板は塗装があちこち剥げ、しかもその剥げた箇所が風雨にさらされて錆が浮き出ています。そのうえところどころへこんで落ち葉やよくわからないものがへばりついてかなり汚らしい状態です。赤い字で書かれた文字は、かなり読みにくい状態でしたが、「おでん、ビール、お酒 ご休憩処 菊花亭」と書かれているようです。その下には矢印が書かれていて、つり橋の方を向いています。
 昼間から一杯というのも、たまには悪くないですね。
 安井さんはぼくの返事も待たずにすたすたとつり橋に向かいました。しかたなく後に続くと、とつぜんつり橋が大きく揺れました。木とロープだけでできた絵にかいたような頼りなげなつり橋を、安井さんは普通の道を歩くのと変わらない豪快な足どりで渡っているのです。あまりに激しく揺れるので、足を踏み出すことすらできず、安井さんが渡り終えるまで待つしかありませんでした。安井さんはこわくもないのか、揺れに合わせてうまい具合にバランスをとりながら、あっというまに渡り終えてしまいました。つり橋の揺れはまだおさまっていませんが、安井さんが振り向きもせずにどんどん先に進んでいくのが見えたので、こわいのをがまんしてつり橋に足をかけました。できるだけ揺れを少なくするためそろそろとしか歩けないので、まるで足を骨折してリハビリしている人くらいの速度でしか進めません。それでも一歩進むごとに汗がにじみ出てきます。そうしているうちにも安井さんの姿がどんどん遠ざかっていくので、つり橋の恐怖と、このまま置き去りにされるのではないかという不安が合体して押しつぶされそうでした。
 渡り終える頃には背中が汗でぐっしょり湿っていました。けれども休んでいるヒマはありません。道は石だらけでしたが上り坂ではなく平坦であったことがまだしも幸いで、ほどなく安井さんに追いつくことができました。安井さんはぼくのことなどもう眼中にないかのように、振り返りすらしません。しばらく、ぼくらは無言で歩き続けました。ところが、いくら歩いても看板にあった「休憩処」らしきものは現れません。それどころか、木々がだんだんと少なくなり、道の両側が盛り上がっていつのまにか灰色の岩壁がそそり立っているのです。やがて、何やら赤いものが見えてきました。ようやく「休憩処」にたどり着いたのかと胸をなでおろしましたが、その赤いものはどうやら鳥居のようなのです。そして、その鳥居のむこうに広がる光景が、はじめのうちなんだかよくわかりませんでした。一面黒と灰色にしか見えないのです。目をこらしているうちにようやくその全貌が把握でき、ぼくは息を飲みました。
 巨大な岩山が目前にそびえ立っていました。火山の溶岩を思わせるどこか凶暴でいびつな形の岩々が重なりあって山になっているのです。どこもかしこも灰色と黒で木など一本も生えていません。その斜面はまるで険しい崖のように急で今にもぼくたちに向かって岩が転げ落ちてくるのではないかと思わせるほどでした。こんな光景は映画くらいでしか見たことがありません。
 安井さんが鳥居の前で足を止めました。鳥居の柱に木の板が針金でくくりつけられています。赤い字で「休憩処 菊花亭」と書かれ、矢印が上を向いていました。
 あそこですね。
 安井さんが指さす先をおそるおそる見ると、岩山の頂上らしきところに小さなあかりがぽつんと見えました。ぼくは岩山を隅から隅まで見渡しましたが、ただ岩が積み重なっているだけで、道らしきものはどこにも見あたりません。安井さんも少し考えこんでいる様子です。ぼくは、安井さんが「休憩処」に行くのを断念してくれることを激しく期待しながら、もう一度あかりを見上げて、ふと疑問を感じました。どうして、こんな昼間に遠く離れた小さなあかりがはっきりと見えるのでしょうか。思わず腕時計をのぞきこもうとして、はっとしました。空はあいかわらず青く晴れています。にもかかわらず、岩山の周辺だけが薄闇に包まれているのです。わけがわからずぼんやりしていると、安井さんが、さてと、とか言いながら岩山を登りはじめているではありませんか。一瞬、泣きそうになりましたが、ぼくの胸にある考えが浮かびました。別にあそこまでついていかずとも、「休憩処」でおでんとお酒を堪能した後、安井さんがまた戻ってくるのをここで待っていればいいのではないだろうか。少し迷いましたが、結局、ついていくことにしました。安井さんがまたここに戻ってくるという保証はどこにもなく、岩山のむこう側に降りて先に進まれたら、もうおしまいです。

         (final episodeにつづく)

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