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彼岸の猫

「怜子、今日の夕方帰って来るって。新大阪まで迎えに行ってあげてな。十七時半着ののぞみ。お彼岸に家族全員揃うって、何年ぶりやろ」
 朝食の味噌汁をよそいながら、母は久しく見せなかった笑顔を浮かべていた。そういえば、今日はお彼岸の中日だ。毎年秋のお彼岸には家族全員で滋賀のお墓に参るのが恒例だった。三年前、父との大げんかの末、姉が家出同然で東京に行ったきりになってしまうまでは。

昨日の夜も、母は長いこと姉と電話で話していたようだ。ぼそぼそした小声だったが、一か所だけはっきりと聞き取れた。温厚な母が珍しく声を荒げたのだ。「ぐずぐずしてたら、もう二度とお父さんに会われへんようになるよ! それでもええの?」
 父が入院したのは半年前だ。末期の胃がんで手遅れの状態だった。その時点で「長くて余命半年」という状態だった。生きて迎えられる最後となるだろうお彼岸が近づいた頃から、父は朦朧としながら、しきりに姉の名前を呼ぶようになっていた。そして母は毎日のように姉に帰ってくるよう電話をかけ続けていた。あの意地っぱりの姉がようやく折れてくれたことに、ぼくはほっとしていた。

 昼過ぎに、病院に行くため母と家を出た。バス停のベンチに座る母とぼくの足元を、墨のように黒い野良猫がうろついていた。母は猫を目で追いながら、
「お父さんもやりすぎたのは確かやけど、三年もたつんやから、あの子ももういい加減」
 そこまで言って、ふっと口をとざした。ぼくも黙っていた。
 もともと折り合いが悪かった父と姉が、決定的に決裂したのは、姉の大学卒業直前だった。原因はもう覚えていないが、それまでにない激しい口論の末、勝気な姉が勢いあまって父を平手で殴った。普段は温厚だがかっとなると見境がつかなくなるたちの父は、よりにもよって姉がかわいがっていた猫をひっつかんで、窓から放り投げたのだ。運悪く走って来た軽自動車の下敷きになって猫は死んだ。

 夕方まで病院で過ごし、母を残して新大阪駅に向かった。指定された改札口で待っていたが、時間が過ぎても姉の姿は見つからなかった。十八時を回った時点で、連絡してみようと携帯を出したところで、母から着信があった。
「怜子一緒やな? 今、どこよ? もう着く? 早く! 早く来て! 早くせな、お父さん、もうあかん! 怜子の名前呼んでるで! 早く来て! 間にあえへんで!」
 あわてて一人でタクシー乗り場に走った。病室に飛びこんだとき、父はぼくの顔を見て、かすかに口を動かした。耳を近づけてみると、かすかに、レイコと聞こえたが、次の瞬間、父の顔ががっくりとうなだれ、その唇はもう二度と動かなかった。

「最後のお彼岸やったのに、全員揃えへんかったな」
 病室の前のベンチで母がほとんど息だけの声で言った。その時、初めて姉に怒りに似た感情を抱いた。しばらくして、廊下の向こうから、ゆっくり近づいて来る人影が見えた。姉だった。どうやら右足を痛めているようだ。母は、呆けたような顔で姉を見上げたまま口もきかない。姉は、それだけですべてを悟ったらしく、ぼくの隣に腰を下してため息をついた。新幹線の時間に合わせて家を出たが、途中の十字路で自転車のハンドル切り損ねて電柱に膝をぶつけてしまい、しばらく歩くこともできず、結果乗り遅れたらしい。
「急に飛び出してきた猫をよけたせいで、電柱にぶつかってん」姉は、右ひざのジーンズのほころびをなでながら言った。
「あの猫、死ぬ間際のお父さんの魂かもね」
 うなだれていた母が、ぱっと顔をあげた。頬が青ざめていた。お父さん、あたしの邪魔ばかりする。かつての姉の口癖だった。

「あんた、死んだ後も、お父さん、悪者にしたいの? お父さん、ずっとあんたの名前・・」
「違うって」姉が母を制するように立ち上がった。
「電柱にぶつかって止まった瞬間、十字路をトラックが猛スピードで横切って行ってん。止まらんと突っこんでたら、あたし、たぶん死んでたわ」
 入っていいよね。ひとりごとのように言って姉は病室の扉を開けた。ぼくも後に続いた。顔に覆われた白い布を取り去ると、姉はじっと父の顔を見下ろし、
「こんなに小さかったっけ、この人の顔。死んだら人の顔って縮むんやな」
 無表情のままぽつりとつぶやく白い頬に涙が伝っていた。  (了)


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