【小説】ルカがはじめて世界を憎んだ日(#3 完結)
「ケイスケ」さんの骨が長い時間をかけて小さな白い壺におさめられ、ようやく、苦役から解放される時が来た。ほっとしながら、ルカは、あせりを感じていた。このままだと、
「UFOと宇宙人」はなし崩し的にミクちゃんによって奪われてしまう。自分との関係性もどこに住んでいるのかも定かではないミクちゃんの手に渡ってしまえば、本はもう二度と戻ってくることはないだろう。そのことを想像するだけで、ルカの頭はじんじんと熱くなった。何度読み返して飽きることのない、ルカにとって現実よりも色鮮やかでリアルに感じられる「UFOと宇宙人」がよりにもよって本にまったく縁のないおバカ女子の手に渡るなど絶対に許されない。
大人たちは、来るときに乗ってきた汚いマイクロバスに向かってぞろぞろ歩き始めている。ルカは、今度は本当に尿意を催して、トイレに向かった。
用を足して手を洗いながら、ルカは鏡に映る自分の姿が団地の洗面所とは全然違ってみえることに驚いた。焼き場のトイレも汚かったが、鏡だけが最近取り替えられたのか、やけに大きかった。手を拭きながら、壁に背がつくくらいに後退してみると、ほぼ全身が鏡に映し出された。
家にはこんな大きな鏡はないので、自分の全体像を目にすること自体初めての経験だった。人の気配がないのを確認して、ルカは鏡に向かって、そっと、「それってヤバくない?」の振りを踊ってみた。初めて自分が踊る全身像を目の当たりにして、ルカはうっとりしていた。まるでホンモノみたい。当然だ。死ぬほど練習したのだから。ミクちゃんのド下手なダンスなんてくそくらえだ。見るからにドヘタなのに大人たちが拍手喝采していたのは、きっと彼らは「あわだまエンジェルズ」を知らないこともあるが、結局はミクちゃんがかわいいからだろう。もの悲しさに縁取られた怒りが腹の底からわきあがってくる。ルカは鏡の中の自分の姿に酔いしれながら踊り続けた。あたしがなりたいのはアイドルかもしれない、いや、アイドルだ。ミクちゃんは、あんなひどいダンスしか踊れないくせにアイドルになると堂々と宣言していたのにこんな完璧なあたしはどうしてアイドルになりたいと素直に言うことができないのだろうか。こんなにも素敵に踊ることができるのに、ほら、ほら。あたしって、すごい。
鏡の中の自分を追うのに夢中になりすぎたルカが自分でない姿に気づき、はっとして動きを止めたときにはもう遅かった。いちばんそこにいて欲しくない顔がそこにあった。ルカの動きにじっと視線を向けるミクちゃんの口元に侮蔑の色がはっきりと浮かんでいるのをルカは見過ごさなかった。ルカと目が合うと、ミクちゃんは、ふっと視線をそらし、黙って個室に入った。
ルカは、ミクちゃんが出てくるまでじっと待っていた。誰にも見せたことのない踊っている姿を見られたのだから、本当なら、恥ずかしさのあまりすぐにその場を逃げ出したくなるはずなのに、ルカはそうしなかった。正体不明の、黒い塊がルカを突き動かした。
「本、返してよ!」
個室から出てきたミクちゃんにルカは詰め寄った。ミクちゃんの目がおびえたように大きく見開かれていることが、ルカの口調と剣幕の激しさを物語る。こういうとき、ルカは、普通になれない。怒るか、黙っているかどっちかなのだ。今回は、怒る方だ。ミクちゃんの口元が弱々しくゆがんだが、それは不意を突かれて驚いただけだろう。バッグから本を取り出したが、ルカが受け取ろうとすると、ぐっと手に力を入れて離さない。ミクちゃんは、食堂の時の顔に戻っていた。なんでそんなに自信に満ちあふれていられのか。ルカが不思議でしかたがないその顔に。
「さっきのダンス、もう一回見せてよ。そしたら返してあげる」
理不尽きわまりない要求だが逆らえないことはルカにはわかっていた。ミクちゃんの大きくて澄んでいるくせに風邪をひく前に夢で見る水でうごめく生き物みたいないやなかがやきは、両親やクラスメイトたちがルカを都合のいいように使おうとするときと同じ色をしている。なぜ逆らえないのかずっと謎のちからだった。なんでそんなこと言われないといけないの、あたしの本なのに。絶対に口には出せない。それに、絶対にダンスはあたしの方がうまいのだ。
踊り始めたルカを鏡越しに、授業中に黒板を見るみたいな平板な目を向けていたミクちゃんは、急にケラケラと笑いだした。
「将来の夢、なんだっけ、プログラマー?。それ、ウソでしょ。本当はアイドル目指してたりして。マジ受けるんだけど」
こいつ、笑ってやがる。まさか自分の方がダンスうまいと思ってる? 話にならない、相手にしていられない。ルカは、とっさに、ミクちゃんの手から本を力をこめてもぎとった。
「痛っ!」
本のカバーに細い溝が刻まれていた。ミクちゃんの爪の跡だ。ミクちゃんは大げさな仕草で指を押さえながら、熱っぽい上目使いでルカをにらんでいる。
「あんた、その本に載ってた宇宙人にそっくりじゃん。そんな顔でアイドルになれるとでも思ってんの」
ルックスのことを言われてもいつもは他人ごとみたいに聞き流すのに、その時は、激烈に腹がたった。きっとミクちゃんがかわいいからだ。
「うるさい、ダンスど下手なくせに!」
ルカは、手にした本でミクちゃんこめかみを殴りつけた。ミクちゃんは顔をしかめて額を手で押さえた。胸に爽快感が広がった。なに、この気持ち。勢いついたルカがさらに本を振り上げようとしたとき、胸に激しい衝撃をおぼえて、からだが吹き飛ばされ、背中を強く打った。個室に倒れこんで、ドアを閉め、鍵をかける。
「出てこいよ! ブス!」
ドアが激しく叩かれ、蹴られ、どすんどすんと地響きみたいな音がした。ルカは恐怖のあまり背中を丸めて時が過ぎるのをじっと待つ。だいじょうぶ。いつもこうしてきた。どんないやなことでもいつかは終わる。急に音がやんで静かになったと思うと、水が流れる音がした。
「おまえ、臭いんだよ。シャワーでも浴びたら」
頭上から冷たい水の塊が振ってきて、ルカは思わず小さな叫び声をあげた。遠くからミクちゃんを呼ぶ声がする。バケツらしきものが床を転がる音に混じって、足音が遠ざかっていった。ルカは便器に腰を下ろしてしばらくじっとしていた。濡れた背中と首筋がひんやりと冷たい。怖いくらいに静かだった。何度か、深呼吸してから、ドアに手を伸ばす。スライド式の鍵はいくら力をこめても開かなかった。何度やっても、びくともしない。あせったが、すぐに思い直した。ルカの姿が見えないことにいくらなんでも両親は気づいて探しに来るだろう。ふたたび便器に腰を下ろしたとたんどっと疲れていつの間にか眠りこんでしまった。
濡れた首筋が凍るように冷たくて目が覚めた。バスの中かと錯覚したが、尻の下は相変わらず硬い便器のふただった。天井近くの換気口を見上げるが、もう光も見えない。時計を持っていないので時間はわからないが日はとうに暮れているのだろう。
ルカが個室から出たのは、さらに三十分ほどたってからだった。助けてくれたのは、掃除係の老婆だった。事務所の男を呼んで、ドアを開けてくれた。男に車で駅まで送ってもらい、電車で帰った。団地についたのは夜の九時を過ぎていた。お腹がすいて倒れそうだった。
「あんた、どこ行ってたの」
台所のテーブルで不機嫌な声をあげる母の前には、スーパーの寿司や惣菜の残骸とビール瓶が散乱していた。父は酔い潰れてソファで大きないびきをかいていた。
ルカの中で何かが壊れる音がした。腹の底からどろどろしたものがせりあがってきた。ゲロを吐くときの感触に似ていたが口からあふれだしたのは吐しゃ物ではなく、自分の声とは思えない叫びだった。両腕がむちゃくちゃに動いてテーブルの上のものをすべてはたき落とした。ビール瓶が砕け散り、皿が惣菜の残骸をまき散らしながら円盤のように流しまで飛んでいった。母の顔にぶつかり跳ね返った箸が床をねずみ花火のように回転した。
母は、顔をおさえてぼんやりした目でルカを凝視していた。昨日まで、ことばの力によってルカを制圧してきたそのしなびたくちびるはただ力なく小さく震えているだけだった。弱々しい母の様子を目の当たりにしてルカの全身に、トイレで、ミクちゃんを殴った時とは比較にならぬほどの爽快感が駆け巡っていた。ルカは、床に転がった醤油さしをつかむと、テーブルの下の敷物の上に中身をどぼどぼとぶちまけた。かつて、ルカがご飯粒ひとつこぼしただけで母に頭をはたかれた、母にしては高価な純白の敷物がどす黒く汚されていく。そして、ルカがソファに向けて力いっぱい投げつけた醤油刺しは、まだ口を開いて眠りこけている父のあごのあたりにいやな音をたてて激突した。ゾンビのように身を起こした父のくちびるから赤黒い液体がぼとぼとと床に落ちた
つけっぱなしのテレビの音楽番組で「あわだまエンジェルズ」が全開の笑顔で歌って踊っていた。
ルカが、はじめて世界を憎んだ日だった。
(了)
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