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残念な曲

私が歌い終えるとみんな黙りこくった。下を向いたりボールペンで額を掻いたりペットボトルのラベルを見たりしている。気にいらないのならせめて顔にでも出せばいいのに皆笑うでもなく怒るでもない顔なのが気持ちが悪い。心の中を知られたくないとき人はよくこういう顔をする。どうですか、とは聞かない。私はそんなこと今まで聞いたことがない。なぜなら、私が人前で披露する曲は、すべて私にとって完璧な状態に仕上げてあるからだ。逆にいえばそうなっていない曲を人に聞かせることは絶対にない。だから、どうですかとか聞く必要はない。どう言われようが私にはその曲をもうよくすることはできないのだ。

長机の一番左に座っている人が、隣の人と話している。小声なので聞こえない。それをきっかけに空気が溶けだしたように、それぞれ動き出した。頭の上の壁の時計が私が部屋に入って来た時と針の位置がまったく同じに見えるが秒針は確かに動いている。それぞれ、手近な人と話しながらも誰も私には何も言わない。ただだまって座っているしかなくて、退屈になって、脇腹がむずむずしたので左手でかいたら肘がピアノの鍵盤にぶつかって音がでた。皆、一斉にあたしの方を見た。初めてそこにあたしがいるのに気づいたみたいな顔をしていた。一番左の髭の人ががみんなにうなづいた。あの人はデビューのショーケースの時にもいた。確かレコード会社で一番偉い人なのだ。
髭の人が何か話している。私を見ているので、私に向かって話しているのだろうが、私には彼のことばがただのひとことも理解できなかった。他の人もうなづきながら、私を見ている。髭の人が、はい、これでもう終わりというような顔をして、立ち上がると他の人も次々に立ち上がった。
一人が、あたしの肩を叩いて何か言った。その言葉はあたしにはわかった。「今回は残念だったね」そう聞こえた。何が残念なのだろう。私は、昨日の夜にできたばかりの曲を今、歌って聞かせた。何度も言うようにあたしにとっては最高のできの曲だ。だから、何も、残念なことはない。勝手に残念にしないで欲しい。男の少し見下したようなゆがんだくちびるがとても醜い。残念なのはお前の顔だ。あたしは立ち上がるふりをして男の顎にしたから思いきり頭頂部をぶつけてやった。男は「げ」、と叫んで顎を押さえて転んだ。あたしは、ピアノを弾きながら大声で歌った。残念な曲だ。曲が残念なのではない。残念と言われたから今この瞬間生まれた曲だ。出て行きかけた人が戻ってきて皆聞き耳を立てている。目の色が変わっている。倒れた男の顎から流れた血が床を赤く染めている。

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