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最後の客

 閉店時間は過ぎていた。昨日までなら、そそくさと営業中の札をはずし、ガラス戸に鍵をかけて明かりを消すのに、今日の彼は、なかなか腰を上げようとはしなかった。質屋「雅」を父から継いでもう十年になる。もともと継ぐ気などなかった。子供の頃から絵が好きだった彼は画家を目指していた。が、現実は甘くなかった。美大を出て、アルバイトで食いつなぎながら絵を描いていたが、芽が出る気配は一向にないまま年齢だけを重ね、意地だけで続けていたところで、父が急死した。母に懇願されて仕方なく、という体を装ってはいたものの、内心どこかで絵から逃げられることにほっとしながら、店を継ぐことを了承した。

 もともと父の代から傾きかけていた上に、彼には情熱も商才もなかった。食べていくだけで精一杯だった。母が死んでからは、わずかながら助けになっていた年金収入も途絶え、住居兼店舗の賃料も滞りがちになり、家主からは立ち退きを迫られていた。手元にはもう金はほとんどなかった。今日、彼は店を閉めた後、夜逃げして友人の家に転がりこむつもりだった。つまり、今日は祖父の代から続いた「雅」の最後の営業日なのだ。

 質流れの品を並べてあるショーケースはほとんど空だった。苦しくなるたびに、業者に引き取らせて金に替えていったのだ。残っているのは腕時計一つだけだ。彼が一番金になるとあてにしていた腕時計だった。帳簿では貸金は百万円となっており、ブランド物の超高級腕時計のはずが、業者には買取を拒否された。粗悪な模造品らしい。おおかた父がだまされてつかまされたのだろう。人のよさは父の唯一の取り柄だったが、商売では足かせにしかならなかった。

 彼はしばらくぼんやり腕時計を眺めていたが、やがて小さくため息をついて、腰をあげかけたところで、引き戸が開いた。スーツ姿の若い女性だった。愛想笑いを浮かべながらも、彼は断り文句を考えていた。家主に怪しまれないよう形だけ店を開けていただけで、何を持ちこまれても貸す金などないのだ。彼女は、おずおずとカウンターの方に歩み寄ると、ショーケースをのぞきこんだ。彼は、ふと妙な気持ちになった。彼女のどことなく寂しげな瞳に見覚えがあるような気がしたのだ。

「これを買い取りたいのですが」

 彼女は、ショーケースの腕時計を真剣なまなざしで見つめていた。本物だと思っているらしい。頬に苦笑が浮かびかけると同時に、耳元でささやき声がした。だったら、百万円で買い取らせればいいじゃないか。それだけあれば当面はしのげる。どのみち、今日で店は閉めるのだ。後でクレームを持ち込まれる心配もない。彼女がバッグから分厚い封筒を取り出すのが見えた。迷いに迷ったが、彼の人をだますことができない性格は父譲りだった。

「すみません。実は、これは模造品でして」
 彼女は、封筒を手にしたまま、顔を上げて彼を見た。その瞳がみるみるうちに盛り上がり、涙がこぼれ落ちた。彼は、はっとした。彼は彼女のことを知っていた。遠い昔だ。彼女は、いつもこんな風に泣いていた。

「申し訳ございませんでした!」

 彼女は叫ぶと、封筒をカウンターに置いて頭を下げた。彼の記憶がはっきりと蘇った。彼女はすぐ近所に住んでいたのだ。まだ小学生だった彼女は、あちこち破れた服を着て、いつも顔や腕にアザを作っていた。父親が酒乱で、仕事もせずに彼女と彼女の母親に暴力をふるうのだと、たしか彼は自分の父から聞いたことがある。

「耐えきれずに、中学のとき、母を説得して二人で家から逃げ出すことにしました。父に見つからない遠くの町に引っ越すために、お金が必要でした。もちろん悪いことだとはわかっていました。けれども、中学生の私にはその方法しか思いつかなかったんです」

 彼女のとぎれとぎれの涙声を聞きながら、彼は悟った。事情を知っていた父は、腕時計が偽物だと気づいていながら、大金を彼女に貸したのだ。長年質屋をやっていながら、業者がすぐ見抜くようなまがい物をつかまされるなど、考えてみれば不自然な話だ。

 彼女は何度も頭を下げて帰っていった。彼は、戸締りをしてから、封筒を仏壇に供え何年かぶりで線香をあげた。店も傾くはずだよ。我知らず口からもれたことばが妙におかしく、彼は父の遺影に手を合わせながらひとり小さく笑った。
(了)
 

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