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美しい亀裂

 火葬場から実家に戻った頃にはもう陽が傾きかけていた。祖母の訃報を母から受けたのは三日前の夜だった。九十三歳の大往生ということもあり、葬儀も湿っぽさはなく、終始和やかな雰囲気で終わった。親戚たちに交じって、居間でお茶をすすって一息入れた後、カバンからカメラを取り出す。

「こんな時まで写真?」 

 お菓子を盛った容器を座卓に載せながらあきれたように笑う妻に向かって意味なく手を上げて立ち上がる。陽が落ちないうちに裏山の桜を撮りたかった。何もない田舎だが桜だけは絶品なのだ。

 台所に出たところで、ふと、何かが動いた気がして足を止める。鏡に映った自分の姿だった。玄関の横の壁に貼られた細長い鏡は物心ついた時からそこにあった。幼い頃、鏡に映る自分の姿を毎日のように飽きずに見つめたものだった。当初、いくら背伸びをしても映るのは首までだったが、身長が伸びるにつれ、胸、腹と映る部分が増えていくことがうれしくてたまらなかった。自分が確実に大きくなっているという事実にわくわくしていた。

 懐かしさがこみ上げ、カメラをテーブルに置き、そばに寄りかけたところで、鏡の下の部分に誰かが映っているのに気づく。息子の卓也だった。居間に背を向け、食器棚によりかかるように床にしゃがみこんで本を読んでいた。なぜか妙な場所で本を読むのが好きなやつなので、普段なら気にもとめないのだが、今回はそうもいかなかった。三日前の夜、祖母の訃報を受ける直前のことだった。高校卒業後の進路の件で口論となり、つい頭に血が上ったおれは卓也に手を上げてしまったのだ。職場の歓迎会で少し酔っていた上に、四年制大学の経済学部を目指していたはずの卓也が、突然映画製作の専門学校に行きたいと言いだしたせいで、頭が混乱してしまったのだ。

 あのことをまだ気に病んでいるのだろう。声をかけようとするが、ことばが見つからず、行き場をなくした視線がまた鏡に向く。そこに立つ自分の姿を間近で見て気持ちが暗くなる。白髪混じりのぼさぼさの髪、たるみきって色つやのない顔、無様に突き出した腹。鏡をのぞいて自らの成長に胸を躍らせていた頃の面影はどこにもなかった。方や、読書に没頭する卓也のうつむきかげんの顔は、今にもはじけそうな果実のようにみずみずしくつややかだった。なめらかな鏡の表面の、ちょうど卓也の頭の上あたりに、斜めに割れ目が走っている。その亀裂は、鏡の中のおれと卓也を分断するかのようにとげとげしく見えた。

 ふいに、記憶が稲妻のように蘇り、思わず目を閉じた。数十年前の夜、父に殴られたおれは、ちょうど今の卓也と同じように鏡の前にうずくまっていた。「写真の専門学校に行きたい」。思い切ってそう告げた時の父の顔を忘れることができない。役所勤めの父にとって、ヤクザになるのと変わらない、とんでもない話だったのだろう。柔道の黒帯だった父に力で勝てるはずもなく、何発も殴られた後、おれにできたことは、行き場のない怒りをこめた拳を鏡に叩きつけることくらいだった。あの夜、卓也に手をあげてしまったのは、酔っていたせいでもなく、彼の将来を真剣に案じた結果でもなかった。「やりたくもない仕事で一生を終えたくない」。卓也のその一言が、家族を養うためとはいえ、何の興味もない仕事を自分をだましながら続け、休日に好きなカメラをいじることで自らを慰めているこのおれの触れられたくない心の暗部をえぐったのだ。本来おれの拳は、鏡でも卓也でなく、他ならぬおれ自身に向けるべきだった。

 おれは腰を落として。卓也の背後から声をかけた。

「殴ったりして悪かったな」

 精一杯穏やかな口調のつもりだったが、卓也の肩のあたりがびくりと震えるのがはっきりとわかった。

「本気で映画の仕事がしたいのか?」

 卓也が、ゆっくりと振り向き、鏡越しではなく、直におれの顔を見た。これほど間近に息子の顔を見るのは久しぶりだった。もうりっぱな大人の顔だった。

「映画の学校に行きたいなら行け、ただし途中でケツをわると承知しないぞ」

 卓也は、しばらく黙っておれの顔をじっと見つめていた。瞳がロウソクの炎のように揺らいでいた。肩を叩いてやると、照れくさそうに笑い、すっと顔をそむけた。鏡に映る窓の向こうが夕陽に染まっていた。やばい。早くしないと暗くなってしまう。あわててテーブルの上のカメラに手を伸ばす。鏡の表面の亀裂が、おれと卓也を美しく分断して、銀色に輝いていた。     

(了)

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