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きれいの意味

 公園の入り口で、思わず足をとめた。やけに騒がしいのだ。いくら春の晴れた日曜日とはいえ、人が多すぎる。いくらも歩かないうちにその理由がわかった。「お花見」のシーズンなのだ。この季節には桜がとてもきれいに咲くので、皆、木の下に集まって眺めるらしい。あたしはうんざりして、それから少しさびしくなった。またしばらく、桜が咲いている公園や歩道を通るたびに、きれい、きれいという声をいやというほど聞かされることになるのだ。
 あたしは、目が見えない。生まれつきの全盲だ。だから、そのきれいな桜を見ることはできない。そもそも、きれい、というのがどういうことなのかわからない。
 あまりに騒がしいので、散歩のルートを変更して小道に入った。その先の誰も寄りつかない草むらにひとつだけベンチがあるのだ。足元を杖で探りながら歩いていると、かすかなメロディが聞こえてきた。オルゴールを思わせるとても心地いい音色で、足を進めるにつれ、どんどん大きくなった。ベンチの前あたりまで来たとき、ふいにとぎれたかと思うと、人が動く気配がした。あたしに気づいて演奏をやめたのだろう。気にせず続けてください、と言うと、
「よかったら、座って」
 どこかさびしげだが、つややかな女の人の声だった。杖の先でベンチを探っていると、そっと腕をとって導いてくれた。御礼を言って腰をおろすと、すぐに演奏が再開された。なぜかすぐに引きこまれて、あたしはじっと息をころして聞きいった。
 曲が終わると、思わず拍手をした。女の人は、「ありがとう」と言った後、いろいろ話をしてくれた。オルゴールのような音色は、親指ピアノと呼ばれている手のひらサイズの楽器であること、またさっきの曲は昨日できたばかりの曲であるということ。
「公園の桜があまりにきれいでね。ぼーっと眺めてたらメロディが自然に浮かんできたの」
 あたしは、はっとした。
「きれい、を音にした曲っていうことかしらね」
 そう言って笑う彼女に、あたしは、もう一度はじめから演奏してくれるように頼んだ。あたしは目が見えないので、桜がきれいだという意味がわからない。きれい、ってどういうことなのか知りたいんです。勝手にことばが口をついてでた。しばらくの沈黙のあと、静かに曲が始まった。必死に耳をそばだてているうちに、ふと体が浮き上がって、頭の中で何かが何度もはじけた。すごくいい気持ちだった。あ、と思わず口からもれた自分の声で我に返った。
「どうしたの? だいじょうぶ?」
 遠くで彼女の声がした。音は消えていたが、不思議な感覚はまだかすかに残っていた。さっきの感じが、きれい、ってことなんだと自然にわかった。涙があふれてきた。きれいって、どういうことかわかった気がします。声が涙でかすれて、彼女に伝わったかどうかあやしかった。女の人が近寄る気配がして、そっと肩を抱かれた。指先があたしの頬に触れた。暖かくてすべすべしていた。思わず右手を伸ばしたら彼女の肩のあたりに触れた。とても細かった。あたしは、彼女の顔に触れてみたくなった。仲よくなった人にはいつもそうするのだ。顔に触ってもいいですか?。聞いたとたん、彼女が身を強張らせる気配が伝わってきた。
 少し間があって、すぐ耳元で彼女が「いいよ」ささやいた。あたしは、彼女の首筋と耳元をつたって頬に触れた。とたんにどきっとした。まだあたしの頬に触れたままの指の感触からは想像できないほど硬くて冷たくて、細かい突起ででこぼこしていた。動物園で触ったことのある亀の甲羅に似ていた。どう手を動かしてみても、ずっと同じ感触で、目や鼻がどこなのかもわからなかった。今まで触れたことのあるどの顔とも違っていた。にもかかわらず、気持ちが悪いともいやだとも感じなかった。むしろずっと触れていたかった。
「あなたが目の見えない人でよかった」
 しばらくして、またあのメロディが聞こえてきた。あたしは息をひそめて耳をそばだてた。彼女の頬をなでながら、あたしの中でまた、きれい、がはじけた。
             (了)

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