トイレっ子
「沼田さん、ちょっと来て」
荻野主任のいらだたしげな声がした。席には沼田さんの姿はなかった。昼休みはとうに終わっている。
「沼田さんどこ?」
荻野主任の手の中で伝票が皺くちゃになっている。沼田さんがまた発注ミスでもしでかしたのだろうか。ちょっとわからないです、と誰かが答えた。
「トイレですよ、どうせ」
隣の葉山さんがホチキスに手を伸ばすついでにあたしの耳元でささやいた。
沼田恵理奈さんは今春に短大を出たばかりの新人だ。元体操部だけあって、倉庫作業など体を使う仕事は得意なのだが、事務処理がからきしダメで、ミスを連発してはしょっちゅう叱られている。その上、お昼を食べると眠くなるのか、トイレで居眠りをする妙な習性があった。女子社員たちからは「トイレっ子」と呼ばれている。
「誰か探してきて、早く」
荻野主任の声が怒りで上ずっている。妙なとばっちりはたくさんなので席にいない方が得策だ。すぐに立ち上がった。同じことを考えたのか、葉山さんが腰を上げかけたが、あたしの方が早かった。
女子トイレには誰もいなかった。沼田さんの隠れ家は、五つ並んだ個室の一番奥と決まっている。案の定、そこだけドアが閉まっている。ノックしてみたが返事はない。さすがにあきれた。まさか、熟睡?。「沼田さ~ん」。名前を呼びながら、ノブを掴んでがちゃがちゃやってみたが、ぜんぜん反応がない。
「早くしないとやばいですよ。お局主任、爆発寸前」
いつの間にか、背後に葉山さんがいた。うまく逃げ出してきたようだ。
「出てこないんですか。トイレっ子ちゃん」
「熟睡してるみたい。反応ないのよ」
「身に覚えがあって、隠れてるとか」
ドアに耳を当ててみたが、気配すらない。さすがに変だと思ったとき、葉山さんがはっとした顔であたしを見た。まさか、と思った。昔、トイレで意識を失ってそのまま亡くなった女子社員がいることを社内で知らない人はいない。
「早く、中、確認しないと」
葉山さんがドアに手をかけてよじのぼろうとしたが、女子トイレのドアはやけに縦に長く到底無理そうだ。腰に手を当てて押しあげようとしたが、スリムだが長身の彼女の体はあたしには重すぎた。ばたつく足がドアにぶつかるだけだ。
「ちょっと、何してるんですか?」
「えっ」「うそ」。あたしと葉山さんが同時に声をあげた。手洗い台の前で目を丸くしているのは、当の沼田さんだった。
「そこ、鍵が壊れて開かなくなったんです」
沼田さんは「鍵故障中 使用禁止」と印字された紙とガムテープを手にしていた。午前中に彼女が入っている時に、ドアが開かなくなったという。総務で張り紙を作ってもらうよう課長に命じられていたのをさっきまで忘れていたらしい。
「ちょっと待って。ドア開かないのに、あなたどうやって出たの?」
「どうやってって、こうして」
葉山さんは、ドアのてっぺんを手でつかむと、器用に壁に足をかけて体を持ち上げ、天井とドアの隙間から個室内にもぐりこみ、いったん姿を消して、また得意げな顔で現れ、すとん、と床に着地した。見事だった。さっすが体操部。葉山さんがぼそっとつぶやいた。
「ベテランさん二人がトイレでだべってたら荻野主任に怒られますよ」
沼田さんは、あっけらかんとした顔でドアに紙を貼り始めた。葉山さんは、あきれ果てた様子で大きくため息をつき、さっさとトイレを出て行った。
「それ貼ったらすぐ戻ってきなさいよ」
「はあい」
荻野主任がお待ちかねだから。喉まで出かけたが、本当にトイレに隠れられても困るので言わずにおいた。 (了)
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