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【小説】らせん階段(1)

 男は美人にしか興味がない。間違っていないとは思うけれど、そうでない男もいた。少なくとも、昨夜、あたしは適当に入ったバーで彼に誘われ、その後部屋に行き、セックスをして今こうして同じベッドにいる。美人ではなく、自分に自信がなく、人にどう評価されるかが行動の指針であったこのあたしがうまれて始めてそのままの自分を評価された喜びを感じている。昨日部屋に入った時は真っ黒だった窓の外が白くなっている。
あたしがベッドから出ると彼も目を覚ました。彼はあたしにコーヒーをたててくれた後、シャワーを浴びに行った。実家がすごい金持ちだという話から想像していたほどのすごいマンションではなかったけれど、それでも隣の家のインタホンの音を自分の部屋と間違えてドアを開けようとしてしまうあたしが住むアパートに比べればまるでドラマのような住まいだ。しばらく、あたしはコーヒーを飲みながら、どれもこれも昨日買ったばかりのような調度品を眺めながら、ぼんやりしていたが、そのうちに、何とも形容しようのない、嵐のような鬱とも怒りともつかない感情が襲ってきた。あたしはよくそうなるのだが、いつどういうきっかけでそうなるのかはわからず、それがやってくると、歩道で前を歩いている小学生を突き飛ばしたくなったり、普通に対応してくれているスーパーのレジのおばさんを怒鳴りつけたくなってしまう。実際にしたことはないけれど、それを自分がすることを想像して胸が破れそうに苦しくなる。その時も、真っ白く積もった雪を靴跡で汚したくなるように、きれいなテーブルやベッドの染み一つないシーツを反吐だらけにしてしまいたい衝動に襲われた。あたしはそれを押さえるかのように身もだえした。ソファにもたれた背中に何かがもぞもぞと触れた。全体的にはきれいに片付いてはいるものの、やはり男の子の部屋だ。ソファには雑誌やらコンビニのレシートが散らばっていた。手を背中に回して引っ張り出すと、銀行の封筒だった。ずっしりと厚い。まさかと思いながら中をのぞいてみると、一万円札の束だった。浴室のドアが開く音がした。あたしはとっさに封筒を背中に戻した。「トースト、焼こうか?」彼が顔だけのぞかせる。「ううん、いい。もう帰らないと。一限、さぼれない講義だから」彼はあっさりとうなづき、顔を引っ込めた。考えるより先に、背中に回した手が、スカートをまくりあげ、封筒を下着の中にねじこんでいた。
 封筒が落ちないように歩く姿勢が不自然に思われないか不安でしかたがなかったが、無事彼に送り出されて部屋を出た。一度寝ただけの女なんてもう何の興味もないのだろう。名前も連絡先も聞かれなかったが結果としてラッキーだ。ドアが閉まったとたん、全身から、汗がにじみ出た。エレベーターのボタンを押すと、ちょうど下に降りていったばかりだった。彼が封筒がなくなったことに気づく前に消えてしまわないとまずい。非常口のドアが目についた。ここは五階だ。階段で降りればいいのだ。
 ドアを開くと、冷たい風が頬を刺し、思わず小さな声をあげてのけぞった。封筒が下着の中で動いた。手を突っ込んで取りだしてバッグに入れる。鉄製のらせん階段の渦が地上まで伸びている。恐怖に胸がすくんだ。あたしはジェットコースターや、この手のぐるぐる回る動きが恐ろしく、気分が悪くなって目を回してしまうのだ。
しばらくその場で固まっていた。遠くでドアが開くような音がした。気づいた彼が追ってくるかもしれない。あたしは、死ぬ気で足を踏み出した。
 らせん階段は凶悪にぐるぐると渦巻いていてまるで地獄に続く道だった。すぐに気分が悪くなるのではというあたしの不安とは反対に気持ちはぐんぐんすがすがしく高まっていくのだった。まるでぐるぐるという回転の動きがあたしの心の灰汁をふるい落としているかのようだった。あたしはかすかに笑い声さえあげていた。前に声をあげて笑ったのはいつだっただろう。
 地下鉄に乗って最寄り駅に着き、改札を出てしばらく歩いたところのカフェに向かった。カウンターのレジは、よく見かける目の大きな金髪のショートボブの女の子だった。無表情で淡々としているのに冷たい感じがしないことが不思議でならない。あたしはどんなに笑顔をうかべても、無愛想だとか暗いと言われるのに。
 スペシャルパンケーキセットを頼んだ。この店でいちばん高いメニューだ。どきどきして声が少し震えた。何を臆することがあろう。あの封筒にはぎっしりと一万円札が詰まっているのだ。いつもメニューの写真を横目で見ながら三百五十円のモーニングセットさえ惜しく思っていた昨日までのあたしではない。
 財布に触れたとたん、あたしは、まるで蜘蛛でもつかんだみたいに離す。中には紙幣が一枚も残っていないのだ。ゆうべバーで払ったのが最後だ。今日は木曜だから先週分の給料は明日にならないと振り込まれない。ひどいバイトだった。朝から夕方まで変な虫がいる穴蔵みたいな倉庫に立ちづめでネジの数をひたすら数えていたのだ。けれども、あのバイトがなければ、来週まで食べるものさえ買えなかったはずだ。あたしは別になまけ者なわけではない。仕事によってはよくやってくれたのでまた来て欲しいと言われることもある。ただ、バイトに行くのが怖いだけなのだ。これならと思って応募しても何かいやなことが起こる想像ばかりしてしまい、キャンセルしてしまう。だから、週に何日も決まらない。なんであたしはこうなのだろう。大学の他の子たちは、みんな毎日のようにバイトに行って、服もいいのを着ているし、髪もきちんと手入れしてさらさらできれいだ。
 あたしは、バッグの中で封筒を探して中からお札を一枚抜き取った。皺一つなくきれいなお札だった。急に不安になって上目使いを走らせてみるが、レジの子は「一万円からでよろしかったですか」といつもの無表情だ。あたしは、「はい」という返事が少し怒ったふうに響いたことが気になりながらも、おつりを受け取り、アイスコーヒーと13という番号札の印字されたプラスティックの盾みたいなのが載ったトレイを抱えて窓際のテーブルに向かった。

【(2)につづく】


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