創作活動に見返りを求めてはいけない
そう言われたのは一週間くらい前だっただろうか。
創作活動とは自身の欲を昇華するための活動であり、その過程に意味があるのだと。
それは確かに正論だし、全くもって否定するつもりはない。
寧ろ、自分自身小説を書き始めたのはそういった理由が大きな部分を占めていると言っても良い。
だからその考え方はぼく自身の中にも存在するものだ。
とはいえ。
それが見返りを求めてはいけない理由にはならないじゃないか、とも思うのだ。
確かに創作活動とはその過程にこそ重要な意味がある。
思うに、創作とは内省の極限だ。
過程の中で、自身の内部ににじり寄るうちに、それまで暗部に隠れていた自分自身に気づき、それが新たな自分を形成する。
例えば小説なら、一つの長編を書く前と後とで人格が変わるということは決して珍しいことではないと思う。
だから創作活動における過程とは、それ自体が目的といっても良いほどの重要な要素だ。
けれどその先にある結果にだって、意味はあると思う。
お金とか地位とか名誉とか(そういうものも正直欲しいけれど)、そういうものじゃない。
ぼくはただ、知って欲しい。
ぼくの書いた小説を、知って欲しいだけなんだ。
だって、長い時間をかけて自分の内側に潜り込んで、何度も挫けそうになって、それでも最後まで書き続けて完成した作品が、誰にも読まれずに壁に吸い込まれる呟きに過ぎないだなんて、あまりにも悲しいじゃないか。やるせないじゃないか。
小説という体を成す以上は、やはり誰かに読んでもらうことを前提に書くものだ。
だから一行一単語一接続詞一句読点に至るまで、自分の想いができるだけ伝わるように注意を払う。
それを誰にも読まれなくていいなんて、どうしてもぼくには思えない。
それにぼくにとって小説を書くことは、ある種のコミュニケーションでもある。
ぼくの中にある混沌とした心象風景を、物語という形へ丁寧に削り出し、小説という形態に嵌め込む。
もちろんその過程で失われてしまう部分もあるけれど、それでもこの過程はコミュニケーションという意味でも必要なものだ。
だってこの世界の常識に対してあまりにも複雑に捻じ曲がったぼく自身の話なんて、誰が聞きたい?
ぼくの好きな作品に「ぼっち・ざ・ろっく!」というものがあるが、アニメ版の劇中歌である「ギターと孤独と蒼い惑星」にこういう歌詞がある。
少なくともぼくにとって、ありのままの姿なんて到底誰にも見せられるものではない。
だからぼくは自分自身のかたちを、小説に託すことにしたわけだ。
そもそもタイトルの言葉をかけられた背景となった話題は、人工知能が与える芸術分野への破滅的な影響に対する危惧だった。
人の手で作られるよりも比較にならないほど早く、大量に作品(ぼくはそれを作品とは認めないが)を生産する人工知能の出現。
それは人の手によって作られた作品が、それら大量生産された製造物に埋もれていくということだ。
ぼくは状況を悲観している。
友人はそんなぼくを激励するつもりでタイトルの言葉をかけてくれたのだろうが、それでもやはりぼくは見返りを求めてしまう。
少しでも多くの人に、ぼくの作品が届いて欲しいと思ってしまう。
そして人工知能が芸術に対して与える影響を黙って見ていることもできない。
その件についてはまた別の機会に書こうと思っているが......。
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