平家物語に見る文章表現の在り方

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

『平家物語』第一巻「祇園精舎」冒頭より

平家物語のど頭、誰もが聞いたことのある印象的な部分だろう。
改めて読んでみるととても美しい文章であると思い知らされる。
これだけの文章で、いやこれだけの文章だからこそ、そう思うのだろう(もちろん平家物語は冒頭の文章から先もずっと続くわけだなんだけれど)。

文章を読むことは、想像することだと思う。

文章は、少なければ少ないほど美しくなる。
説明するために文章を積み重ねることは簡単だ。
しかし文章を重ねるほどに、美しさは褪せていく。
なぜなら私は文章そのものを感じているのではないからだ。
そうではなくて、私は文章によって想像される世界を感じているのだ。
そして簡潔な文章には多分に想像の余地があり、そしてその想像は文章に束縛されない程、美しさを解放できる。
文章はその想像を手助けするツールに過ぎない。

ところでなんで沙羅双樹の花の色が盛者必衰の理をあらはすのか?

昔読んだ時にはなんとなく二節目の意味が理解できずひっかかっていた記憶があり、今回調べてみた。
「四枯四栄(しこしえい)」という言葉があり、それを表しているのではないかという説があるらしい。
釈迦入滅の際に周囲にあった8本の沙羅双樹のうち四本が枯れ、四本が栄えたと言う。
これは、釈迦が涅槃に入ったがその教えは後世に残ることを意味する。
枯れるものもあれば栄えるものもあるという様を平家、そしてその周囲を取り巻く環境(平家物語においては殊に源氏だろうか)に重ねたのではないだろうか、ということである。

沙羅双樹の花の色の節は、文字通りの盛者必衰を意味すると同時に、平家物語それ自体を象徴していると気づく。
平家は滅びたが、彼ら彼女らの物語は今も残っている。
四枯四栄の言い伝えのように。

四枯四栄については瑞雲寺の副住職さんのブログから。
瑞雲寺だより (http://zuiunzi.jugem.jp/?eid=406)

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