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深大寺 その1

運動不足解消のため、三密を避け自転車散策をすることにした。今回は深大寺。車、人が少ない早朝にスタートし出掛けた。

深大寺へは調布市街地から向かうが、佐須街道を横断して中央高速の高架下をくぐる辺りから国分寺崖線を上る坂道が続く。長いダラダラ続く坂、ペダルを踏みしめながら上っていくと道の左手も下りの結構な急斜面になっている。地形図を見ると、どうやらこの辺りは台地の一部が谷状にえぐられているようで、えぐれた崖の端を台地の上部に向かって走っていたようだ。深大寺は、坂の中腹、つまりはこの谷状の地形の崖面に位置している。

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崖線、いわゆる「はけ」からは水が湧き出るが、深大寺は今でも清水が溢れる水の名所となっている。蕎麦の名所でもあり蕎麦屋が軒を連ねているが、残念ながらこの状況下、蕎麦屋はもちろん深大寺も閉門されており境内に入ることはできなかった。敷地内は自由に散策することができるので、参道から門前を通り過ぎ、ぐるっと一周することにする。一歩入ると、絶えずどこからか湧き出る水音が響き、水は清冽な小川となって流れ出している。高低差もかなりある。北側は武蔵野台地の上部に続いており、反対側、南側は一本道を挟むと湿地帯で水生植物園になっている。緑の木々ともあいまって湿った空気が心地よい。

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豊富な湧水、台地上部の乾いた土地に恵まれたこの地域では古くから人間の生活が営まれた。近隣の遺跡からは旧石器時代の遺物も発掘されているらしい(※1)。飲み水がいかに貴重かを考えれば、この土地がどれだけ大切だったかは容易に想像がつく。寺の敷地隣に青渭(あおい)神社という古社が鎮座するが、社の由緒に「往古(3000年~4000年以前)先住民が水を求め居住した際、生活に欠く事のできない水を尊び祠を建て、水神様を祀ったと伝えられている。」とあることからも、古くからの信仰の地であったことが伺える。


そんな即物的?な意味でもパワースポットであるこの地に仏教寺院が創建されたのは、時代が下り奈良時代(733年)、南都法相宗で学んだ満功上人により建立された(※2)。「深大寺」の名前の由来は深沙大王で、もともとは深沙大王を祀る寺院だったらしい。今もお像が秘仏として祀られているが、現代ではあまりメジャーではない深沙大将がこの地の水への信仰の象徴として具象化されたことが興味深い。なお、寺縁起をめぐっては、寺宝「深大寺縁起絵巻」についての鈴木堅弘氏の論考(※3)が大変面白かったので、別の機会に深読してみたいと思う。


さて、深沙大王といえば、復曲能「大般若」が思い浮かぶ。この曲の主役、シテ演じる深沙大王は、仏典の守護神で玄奘三蔵の命を助ける善神であると同時に過去には玄奘の命を7度も奪った荒々しい神としても描かる。その源は経典の中にも表れるが、首に髑髏の瓔珞を下げ忿怒の相を浮かべる荒々しいお姿が特徴的で、西遊記の沙悟浄の原型となったとも言われる仏神である。
前述の鈴木氏の考察にもあるが、この深沙大王の荒々しさは、この土地の水への別の記憶を喚起する。段丘の下、つまり坂道の下には多摩川の沖積低地が広がっている。川の氾濫は少なくない被害を過去何度もこの地にもたらしただろう。この地の人は、水の恩恵を受けながら同時に水を脅威としても受け止めていた。深沙大王は、時に蔵王権現と同一化して祀られることもあるらしいが、役行者が蔵王権現を感得したときの「釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩は人々を救うには優しすぎる。荒々しい仏性の蔵王権現こそがふさわしい。」をふと思い出した。この地を鎮護する(鎮めて護る)には深沙大王こそがふさわしいと考えられたのかもしれない。

深沙大王堂にお詣りし、緑が溶け込んだような芳醇な湿度の空気を吸い込みながら、この土地で営まれたご先祖様達の暮らしに思いを馳せてみた。祈りの対象として聖域化された土地は共同体の公共財としても機能しただろう。そんな「システムとしての聖域」に興味を惹かれる。同時に、昨年の台風を生々しく思い出す。これだけ技術が進歩した現代でも相変わらず水害は脅威であることを思い知らされた。突き詰めると、私たちがリアルな身体で生きる以上、身体性を伴う根底のところは何も変わっていないのだろう。では「祈り」は変わったのだろうか?これからも自転車散策をしながら考えてみたいと思った。

※1 調布市HP「調布市のあゆみ」より
※2 深大寺HP「深大寺の歴史」より
※3 鈴木堅弘氏 「『深大寺縁起絵巻』における深沙大王説話とその絵画的継承ー縁起形成の近世的在り方への一考察ー」『京都精華大学紀要 第49号』


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