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推し活なんか、命かけんな

新春早々納得も共感もできず、大いに引っかかってしまった。「ヲタクは命がけ」って言葉に。他人事なんだからいちいち引っかからなくたって良いのに、ついついそれは違うんじゃない?と言いたくなってしまう。きっとそれはもう他人事ではなく自分事である。

こんなこと言うと気持ち悪い女だけれど、言葉を選ばずに言おう。私に「観察するオス」はいたとしても「溺愛する推し」はいない。厳密に言えばいなくなった、だ。最近そのいなくなった時のエピソードを思い出すような“ざわつき”があった。鉄は熱いうちに打てというわけで、自分の中のざわざわとした反感と俯瞰が冷めないうちに、noteにしておこうと思う。

単刀直入に言うと、「皆さん自分の機嫌や生活自体の理由を、推しや推してる界隈に押し付けすぎていませんか?」ということだ。

推しから喜怒哀楽を得たり、推しと同じ食事をしたり、推しっぽいモチーフが入った日用品を買ったり……推しのいる生活は身体も心も忙しい。一歩間違えると財布も寂しい。でも楽しい。何より全ては「推してて良かった」というこの上極まりない瞬間のために、日々楽しさも苦労も積み重ねている。

もう一度言うが、推しのいる生活は楽しくて幸せだ。でも、もしもその推しが自分の思いから外れた行動をとった時、一瞬にして悲しくて不幸な気分になる。それは推しがいる人にとって、ごくごく自然なことだと思う。本気で応援すればするほど、マイナスな感情も深くなる。私も過去にはそんなヲタクだったからよく理解できているつもりだ。

ではここから、いまだに理解できない話をしよう。私がどう頭をこねくり回しても解せないのは、推しから与えられてしまったマイナスな感情の持続したが故の損害までをも、推しの責任にすること。つまり「推し(とその界隈)のしょうもない言動に振り回されて1日損した。どうしてくれんの?」である。

(しょうもないのはあなたの方、どうしてくれんのもそったらもんもねぇ)……心の声が漏洩しているのはさておき。推しの言動によって生まれた悲しみや怒りなどの一次的な感情は、その言動がなければ生まれなかったのだから推しのせいにしても許されると思う。

それを踏まえた上で、私は言いたい。本当の災害でもあるまいし、二次的な害とも言える「1日中気持ちが乱された。そのせいでせっかくの休日の予定が狂ってしまった」ことまでも推しのせいにするのはお門違いも甚だしいでしょう。だって、自分自身の行動次第で気持ちを切り替えるタイミングなんて、1日の中でいくらでもあったはず。もしくはマイナス感情を引きずったままでも、自分のためになる時間を過ごすことは絶対できるはずなのだ。

あるいは、(振り回された時間返せ!推し変してやろうか?)と思ったとしても、それをSNSに書かないで自分の胸に仕舞っておくという選択は、理性のある人間なら必ずできることだ。推し活はただシンプルに、“推しを応援して自分も活力を得る”ことのはずなのに、その推しを傷つけてまで自分の正義を訴えて、一体誰が幸せになるというのだろう。そもそも推し活なんて人それぞれの曖昧・不安定なもの。そこに正論を持ち込もうとすること自体無茶なのに、輪をかけるように怒りや悲しみを露わにしてツイートしたら、自分自身のためになるわけがないのだ。

目についたのは自分の正義を振りかざす人々と、その真逆の聖母たち。前者は言うまでもなく前述の“自分の人生の責任までも、推しに押し付けネキ”。一方後者は“かすり傷ひとつ負わず、推しを慈愛で包みこむハハ”と言うべきだろうか。単に“優しい全肯定ネキ”の方がわかりやすいかもしれない。こう呼び方に迷うくらい、ふわふわと丸っこくて実体のない人々が後者なのだと思う。きっと彼ら/彼女らは、推しにアイデンティティを乗っ取られているのでしょうね。

両者は全く違うが、同じでもある。「ヲタクは命がけ」ーー冒頭で述べたように命をかけてヲタクをやっているという点では、正義による制裁と慈愛による全肯定は表裏一体なのだ。制裁なのか全肯定なのか、というアウトプットの仕方が違うだけで、みんな推しに自分の人生を託している。推しが自分の人生を変えてくれる存在になっているのだ。だから、一見善人に見える“優しい全肯定ネキ”も、自分で自分の人生を生きようとしていない、という点では人として許されないと私は思ってしまう。

偉そうなことを言ってお前は何様だ、と思われるだろう。もちろん私は何様でもない。過去において誰よりも愚かだったからこそ、この件は堂々と語ることができる。私こそ、不透明な世界に正論を持っていった偽善者であり、推しに自分の価値観までも占領されていた愚者でもあった。

年齢・出身都道府県が私とまるっきり同じで、名前も結構似てる、地下なのか半地下なのか屋上なのかさっぱりわからない女性と、推しが匂わせ。共有の服、同じ絨毯、ぬいぐるみ、映り込み、てんこ盛り(そんな分かりやすいことしないでモールス信号とか暗号を使ってほしかった)。発覚した時の屈辱たるや。耐えられなくて、割とすぐにヲタクを卒業した。

いなくなる時にわかりやすい毒を吐いた。と言っても自分なりに品格を漂わせて。抑えた筆致の静かな、自分で言うのも難だけど名文ではないかと思えてしまう言葉を残して立ち去った。

でもつい最近たまたまそれが目に入った時、「格好悪いな私」と心底思った。いくら丁寧な言葉遣いを装っても、こんなの下品。書かなきゃ良かったと後悔すると同時に、あの当時はこんな風に書かなきゃ生きていられなかった、と冷静に振り返った。

下品な言葉の連なりはもちろん、推しを全肯定する愛情の裏返しだった。ヲタ卒以前は私の生活の全てが推し活だったし、楽しくなんかないしんどい仕事を続けるエネルギーの源が推しだった。推しがいなければ私じゃない、と言い切れるくらい夢中だった。だから全肯定だろうが制裁だろうが、何をやってしまっても無理もなかったのだ。当時の私は。

今思えば、相手の全てに納得し、やること成すこと全部を認めてあげるなんて、そんなの本当の愛情じゃない。「ダメなものはダメだよ」をいかに工夫して、相手を傷つけずに伝えるかが本当の愛情なのに(まあそれができる相手でもなかったしね。ヲタ卒しか道がなかったのよ)。

私のように推し活が苦しくなってしまう人の本質は、「愛する」ではなく「愛されたい」だと思う。推し活は能動的な活動に見えて、実はどこまで行っても受動的だ。テレビを観るのもSNSに感想を書くのも旅行するのも、全て推しのコンテンツがなければ成立しないのだから。

受動の究極の目的地は「認知されたい」つまり「推しからの何らかのレスポンスがほしい」。これはもう「推しの人生の登場人物になりたい」と同じ意味だと思う。案外、別にレスがなくても在宅で見てるだけで十分です、という人が推しを一番愛しているのかもしれない。見てるだけ、が愛してることになるなんて、全身全霊をかけて推している愛されたい人々にとっては皮肉な話だ。

いわゆるガチ勢は、なぜこうも推しから愛されたいのだろう。この疑問についても、自分の胸に手を当ててよくよく考えてみると「自分の人生からの逃げ」だと気づいた。変わらない日常、つまらない仕事、やりたいことなんてない人生。給料は増えず、新しい出逢いなんて当然なく、なんか世の中全体が嫌な感じ。そこから手っ取り早く、違う世界を見せてくれるのが推し活だ。

推し活を徹底的に楽しむ人生に満足しているならそれで良いと私は思う。でも、推しを好きすぎるがあまり苦しくなって、過去の私のように自分の人生と向き合えなくなるのなら、正直ヲタクを卒業した方が良いのだ。喪失は、危うく身を滅ぼしかけてしまうくらい辛い。でも喪失の先に、ひとまずちゃんと寝て、ちゃんと食べて、何も考えずぼーっとして見つけた答えが、実は人生を変えてくれることもある。私にとってのそれは、ヲタク卒業して2ヶ月後の沖縄旅行だった。

私の人生=言葉を楽しむこと、自分の文章と向き合うこと。だから最近やっと、自分の人生に向き合うことができていると実感している。無意味な出会いなんてない。元推しもあの恋も、全てが今に繋がっている。

自分の人生と本当に本気で向き合い始めた時の出会いは、本物だと思う。






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