【第一章 モノをとおしたコミュニケーション】 そこに「あの人」はいるのか?
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❝何であれ美しく見えるものはバランスを欠いている。しかしその背景は完全な調和を保っている。❞―鈴木俊隆(曹洞宗 僧侶)
最近オープンしたばかりの霊園へ見学に向かった、墓ありじいさんと墓なしじいさん。
見渡す限り、そこには同じカタチ、同じ大きさの墓石がずらりと並んでいた。
じいさんたちがこれまで墓地で見てきた墓石とは違い、大きさはかなり小さく、石種も似たり寄ったり、ノートパソコンほどの大きさの石のプレートに「〇〇家」と彫ってある。
「これじゃあ、どの墓がうちの墓なのか分からんのう…」と、墓ありじいさん。
「骨はどこに入っているんだ?骨は?」と、墓なしじいさん。
二人はおのおのの質問を矢継ぎ早に霊園スタッフにぶつけた。
金額は、一般的な墓石よりも3割程度安く、期限がくると合葬されるという。死後の墓守を考えなくても良い点では妥当なのかもしれない。
だが、墓石の価値として考えると、墓ありじいさんには少々高い気がした。
そして、何よりも気になったこと。
それは、そこに眠ることになる妻が窮屈な思いをするのではないかということだった。
『自由を愛した妻が、隣の墓石と数cmしか空いてない、この墓に眠るのか?』
墓ありじいさんの妻は生前、写真を撮ることが趣味だった。家族の写真はもちろんのこと、よく一緒に撮影旅行をし、また地元の写真コンテストに応募し、その作品も展示されていた。
彼女の性格を一言で表すならば「人と同じはイヤ」。
自分らしさを追求している女性であり、そこが墓ありじいさんのひそかな自慢でもあった。
そんな妻を、霊園が設けた同じ規格のハコもののなかで眠らせてしまうことに心苦しさを感じたのだ。
帰り道、墓ありじいさんは自分が感じた想いを、墓なしじいさんに話した。
「悪くはないが、なにかが違うねぇ…」
墓なしじいさんは、こう答えた。
「そうかい?わしは、あそこでいいと思ったよ。あそこなら誰にも迷惑をかけないですみそうだからね。
まだ、どっちが先に逝くかはわからんけど、数十年後にあそこで墓参りしている自分を想像したよ」
そうか!そこだったのか。
墓ありじいさんは気がついた。
じいさんは、そこで墓参りをしている自分、子どもたち、妻の友人たちのことをイメージできなかったのだ。
そこに眠る妻もそうだが、彼女が歩んだ人生をこの味気ない墓地に埋没させてしまう自分を、家族を、彼女の友人たちの姿を思い描くことができなかったのだ。
帰宅後、霊園見学の報告をするために娘に電話をした。
「そっか。それなら仕方ないわね。父さんが違和感をもったところに母さんを眠らせるわけにはいかないし、たしかに母さんから文句言われそうだね(笑)」
後日、息子にも同じ報告をした。
「了解。
まぁ、のちのちのことはどうなるかわかんないけど、僕らももしかしたら母さんと父さんと同じ墓に入ることになるかもしれないし、またこっちの方で建てることになったら、そのときはそのときで考えるよ。
経済的に墓を建てられないわけではないから、墓を建てる方向でいいんじゃない?」
墓ありじいさんは、こうして妻のお墓を建てることを決意した。
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