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何かを生みだすためには、慣れ合いうわべの仲間はいらない。 「RATS」- BOOWYの歌詞に見る仕事論③

SNSをみていると、気にしていようがいまいが、他の経営者の動向が見えてしまう。最近、それらの投稿になんらかの違和感を持つことがあって、それは何なんだろうと考えた。

それはきっと、SNSを手っ取り早く承認を得る手段にしてしまってるように感じることなのだ。

SNSの友だちに、自分を応援してくれる仲間がいることは幸せなことだ。とくに経営者なんて孤独な生き物だから、そうした仲間の応援や「イイね!」は支えになる。自分の背景を知っている人が共感してくれることは、勇気になる。

だが、それがクセになってしまい、安易に共感を得ようとしてしまうなら、それは致命的になりはしないだろうか。

良いサービスや商品、アイデアが広まることは、たしかに多くの「イイね!」をもらうことと同意だと思う。

でも、まだ時間をかけて考え抜かれていない「理念」や、浅はかな「理想」「願望」が、ただその人個人に紐づいているというだけで与えてしまう共感は、果たしてその人のためになるのだろうか、という疑問を抱いてしまう。


何もなけりゃ ALWAYS 友だちヅラ ALLRIGHT
事が起こりゃ OF COURSE 知らん顔で OH NO
何もないときだけ いつでも笑顔で付き合う
慣れ合いうわべの仲間
軽い話 ALWAYS 調子合わせ ALLRIGHT
ヤバくなれば OF COURSE ケツをまくる ALWAYS
そんなヤツばかりサ 言葉の遊びにつまれば 
あとには何もないのサ
上手に世の中 渡れていいぜ
淋しさ知らずに生きてていいぜ
言葉をオモチャに使えていいぜ
本音が最後の切り札か

(作詞 氷室狂介)


本音で言い合える仲間や身内であれば、着飾った言葉のなかにひそむリアルをつつけるのだが、SNSという社交場ではそういったことはタブーだ。

誰かがこんなことを書いていたのを思い出す。
芸術家がSNSで中途半端に承認されていたら、そもそも芸術作品を完成させていたのだろうかという話。

SNS上で得られる承認欲求を捨て、まったく自分を知らない波に放り出す。それは「市場」そのものなのかもしれない。
でも何かを生みだす人は、そこに自ら飛び込む勇気こそ必要になるはずだ。

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