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「俺はサンドバックじゃない」と言われた話。人に話すことの加害性と対話について

たまりたまったうっぷんをお互い吐き出してしまったんだと思う。
あるとき、パートナーから「俺はサンドバックじゃない。毎日愚痴や不平不満を受け止めていたらボロボロになる」という旨の言葉をちょうだいした。

驚いた。自分にはそんな実感なかったから。そんなにぶつけてたっけな?
ただ日常会話をしていただけの気がする。日常会話を振り返ってみると確かに愚痴や不平不満とか、困ったお客さんの話とかしていたと思う。
だってそれが日常だから。
「今日何があった?どうしてた?」みたいな気持ちでお互い話すのがコミュニケーションだと思っていた。

でも相手にとっては違ったみたい。
私の日常(ネガティブのたぐい)をモロに受け止めて、サンドバック状態でもう限界がきた、ということらしい。

は?もう普通の話できないじゃん。
SNSと一緒じゃん。綺麗なとこ、いいとこ、ポジティブなとこだけ切り取って話せってこと?
じゃ、もうそれあなたでなくてもいいじゃん。
と私は放った。

この一件以降、何を話したらいいのかわからないまま、業務連絡やうわべの会話だけをしている気がする。

そんなこんなでモヤるなか、先日「ぬいぐるみとしゃべる人は優しい」という映画をひとりで見た。
ぬいぐるみ相手にしゃべる“ぬいぐるみサークル(略してぬいサー)”の人たちが主人公。
「誰かに話したいけど、話すと相手も傷つけてしまうかもしれない」そんな風に考える男女が、それぞれの悩みをぬいぐるみに打ち明けている。
これを描いた監督は「人に話す加害性」について触れたかったという話を聞いた。


これだ!サンドバックだ。
嫌なことがあったとき誰かに話したいと思う。だけど話を聞かされた相手も同じように嫌な気持ちになる加害性。
じゅうぶんわかる。ぐちぐちいってる人がずっと傍にいると、こっちまで陰鬱な気持ちになるもんな。セクハラにあった話とか聞くと、自分がされたわけじゃなくても憤慨するし、失恋した話ならこっちまで悲しくなってしまう。

映画のラストでは、ある出来事がきっかけで引きこもってしまった男女がお互いの胸の内を打ち明けあう。ぬいぐるみではなく目の前の人間に。
ストーリーを詳しく書いてしまうのもなんだなと思うのでうまく伝わらないと思うけど、加害性だけでなく人間に話すことや対話することの必要性みたいなものに触れていたんだと思う。
映画のキャッチコピー「わたしたちは全然大丈夫じゃない」というのが最後の最後にがっつり刺さる作品だった。



映画を見る数日前に読んだジェーン・スーのコラムを思い出した。


ー「互いの目に映る景色を丁寧に開示し合うことで広がる世界があり、回避できる対立があり、深まる理解がある。少なくとも、日常生活においては非常に有効だ」―

「サンドバックだ」と言われてから、何も話せなくなってしまった私。そのせいで、自分のなかだけで思考がぐるぐるして「どうせこうやって思ってるんでしょ」、「どうせこんな話には興味ないだろうし」という超マイナス思考を発動して閉じこもり、さらに関係を悪い方向へ向かわせていた。意味もなく対立してしまっていた。


映画とコラムは偶然にもほぼ同じタイミングで目にした。今の私に必要なことだったのかなと漠然と考える。

私は日常生活でおこるアレコレ、どうしようもない出来事やささいな幸せとか話したいし聞きたい。たとえ、モヤッたり傷ついたとしてもそれも一緒に味わうということが、相手を理解するということなんだもんなと思っている。
「わかるよ」といえなくても「わかりたい」という気持ちをもって、ささいな話もできたらいいな。

しかし「サンドバックだ」と言われた側なので、これからどうしたもんか。映画を見てもらうのが早いかな。わかってくれるんだろうか。私の意図を。誰かの知恵を拝借したいもんだ。(おわり)


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