『天気の子』は「それでも世界は続く」肯定の物語
誰かが批判した作品は、誰かの明日を照らす作品でもある
誰かが批判した作品は、誰かの明日を照らす作品でもある……『天気の子』を観て強く感じたことだ。
『天気の子』のあらすじは、実にテンプレート。
旅(家出)をした少年が不思議な能力を持った少女と出会い、数々の問題を乗り越えた先に「世界か少女」かの二択を突きつけられる。
要約するとこんな内容になる作品は、他にごまんとあるだろう。少女の不思議な力を狙う組織が現れればさらにテンプレだが、それは企画段階でボツになったらしい(パンフレット参照)。
特筆すべきなのは、新海監督が「セカイ系」に類する作品を再び描いたことだろう。
セカイ系は解釈が曖昧な言葉なので、ここでは定義について掘り下げることはしない。
新海監督の初期衝動といえるテーマで、『ほしのこえ』と『雲の向こう、約束の場所』もセカイ系を代表する作品として挙げられる。
とくに『天気の子』と『雲の向こう、約束の場所』は、「ヒロインが世界のための人柱になっていること」や「雲の向こうからヒロインを救い出すこと」といった根幹が一致している点は見逃せない。
セカイ系は基本的に「ヒロインの犠牲をもとに世界が救われる(保たれている)。主人公はヒロインのいない(いなくなった)世界で、なんやかんやする」といった構図を描く。
あらすじだけだとベタな構成の『天気の子』にあって、最大の特徴は「世界を犠牲にして、少女を選んだ」ことだろう。
言いかえれば、「多数の命よりも、一人の命を選んだ」。
※『雲の向こう、約束の場所』でも主人公の浩紀は同様に「世界よりもヒロインを選ぶ」のだが、同時に世界を救う方法も得ているため「世界かヒロインか」の二択に苦悩していない。
きっと「ヒロインを選ぶ」という選択を名もないラノベでやっても、逆張りした設定と一笑に付されるだけだろう。
『君の名は。』の大ヒットで影響力と免罪符を得て、セカイ系を作り続けた新海監督が描くからこそ、意義深い結末になったのだと思う。
とはいえ、災害を防ぐことよりも一人の命を選ぶーー被災経験者などは生理的に受けつけない結末かもしれない。
実際に新海監督のインタビューを読むと、『君の名は。』でさえ「震災をなかったことにする許されざる映画」との批判が届いたという。
公開前から『天気の子』に対して「賛美両論になる作品」と予防線を張っていたのは、このためだろう。
けれど、センセーショナルな悲劇を体験した人にばかり目を向けて、平穏な日常のなかで真綿で首を締められるように削られる人は見過ごされていいのだろうか。
教室の隅で行き場のない鬱屈を抱える少年少女の不幸は、取るに足らないものなのだろうか。
『天気の子』は、セカイ系の文脈を踏襲しつつ、普通の少年少女の強烈な自己肯定の物語に仕上がっている。
誰かが批判した作品は、誰かの明日を照らす作品でもあるのだ。
思春期を過ごす人に向けた物語
新海作品の魅力のひとつに「閉塞した日常のなかに、誰もが憧れるドラマが潜んでいると思わせる」ことが挙げられると思う。
『秒速5センチメートル』と『言の葉の庭』がこの典型だ。言葉で語れば、いつまでもウジウジと引きずっている過去の恋愛。あの映像美なかでは、極上のドラマとして映える。
『君の名は。』が大ヒットしたのは、この要素とセカイ系がうまく融合したことも要因のひとつだろう。
この文脈は『天気の子』でも受け継がれていて、バニラの求人トラックやまんが喫茶の看板など決して美しくない歌舞伎町の風景まで再現されている。
その写実的な再現度は、「今年の長い梅雨のなかで実際に起きた物語なのでは」と錯覚させるほどだ。
誰もが知っている街のなかで起こるボーイ・ミーツ・ガール。新海作品のお約束ともいえる「ここではないどこかへ行きたい」という思いと閉塞感も合わさり、思春期を過ごす人たちに「自分たちの物語」として刺さるのではないだろうか。
実際に新海監督はNHKのインタビューでも「まずは10代20代、思春期を抱えた人たちに向けたい」と語っていた。
それでも世界は続く肯定感
終盤に向けて主人公の穂高は、警察から脱走したり恩人の須賀に銃を向けたりとやりたい放題だ。
あの瞬間、明らかに狂っているのは世界ではなく穂高のほうなのに、「はみ出し者」に対して感情移入をしてしまう。
結果として、穂高と陽菜の選択によって東京は雨の止まない街となる。
実際に東京が水に沈んだら何万という人が犠牲になるだろうし、世界経済も大混乱に陥る。
きっと、世界よりも陽菜を選んでしまったことは正しくない。
けれど、須賀や富美といった大人たちは「セカイ系」を否定し、穂高と陽菜の決断がなくても世界はきっと変わっていたことを示す。
話は少し脱線するが、穂高と陽菜に責任を求めない点も、非常にうまい逆手のとり方だと思う。
世間は世界を救った人々のことを知らずに日々を過ごす……というエンディングの作品は多い。
逆にいえば、世間は世界を変えてしまった人々のことを知らずに日々を過ごすのではないか。思わず唸ってしまう発想だ。
そして、子どもたちの決断は肯定されてエンディングへと向かい、穂高と陽菜は再会する。
今までの「セカイ系」は、自己犠牲や抑圧といった悲劇に共感する物語が多かったように思う。
言うなれば、「仕方ない」「ルールだから」という諦めへの慰めだ。
その点で、『天気の子』で描かれるボーイ・ミーツ・ガールはある種の転換になるだろう。
自己犠牲を強いる価値観を植えつけるのではなく、傲慢に自己肯定を繰り返した先に「大丈夫、それでも世界は続いていく」と言ってくれる作品。
『天気の子』は誰かの批判を受けようとも、これからの世代のためにきっと必要だ。
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